アリー・ブン・イーサー・アストルラービー(アラビア語: علي بن عيسى الأسطرلابي, ラテン文字転写: ʿAlī b. ʿĪsā al-Asṭurlābī; 生没年不詳)は、9世紀の天文学者、地理学者[1][2]。「アストルラービー」は職業や生業に由来するニスバであり、この人物がアストルラーブを含む天文器械を製作する職人でもあったことを示唆する[2]。アストルラービーには Risālat al-‘amal fī-l-‘asṭurlāb(天文器械製作論)という題名の著作がある[2]。著作の中でアストルラービーは占星術を批判している[1][2]。
アッバース朝カリフ・マアムーンの宮廷には数多くの科学者が集まって、一種のアカデミーを構成していた[2]。カリフはあるとき、科学者らに地球の大きさを問うた[2]。そのための観測がヒジュラ暦214年(西暦829年-830年)にバグダードで[2](一説によるとスィンジャール山地で[1][3])、ヒジュラ暦217年(西暦832年-833年)にダマスクスで行われた[1][2]。アストルラービーはこのときの観測に、サナド・ブン・アリー、マルワッルーズィー、アッバース・ブン・サイード・ジャウハリー、ヤフヤー・ブン・アビー・マンスールらとともに参加した[2][3]。観測はサナドがまとめ役で[2]、アストルラービーは大掛かりな四分儀を使用して観測する役目を担った[1][3]。アストルラービーは観測後にまとめられた『マアムーン天文表』の作成にも関わったものと推定されている[2]。