アルトゥール・ジーベリスト Arthur Siebelist | |
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『自画像』(1900) | |
生誕 |
1870年7月21日 ザクセン王国、ドレスデン |
死没 |
1937年11月26日 ドイツ国、ハンブルク |
運動・動向 | ドイツ印象派 |
アルトゥール・ジーベリスト(Arthur Siebelist、1870年7月21日 - 1945年1月4日)はドイツの印象派の画家である。ハンブルクで美術教師として後進を育成した。
ドレスデンのロシュヴィッツ(Loschwitz)に生まれた。ハンブルクで育ち、装丁などの工芸家の工房で美術を学んだ[1]。1890年に1年間、ミュンヘンの王立工芸学校(Kunstgewerbeschule)で学んだ後、オランダ、フランス、イタリア、イギリスを旅して修行した。
1897年にハンブルク美術館館長アルフレート・リヒトヴァルクが主導して創られた、ハンブルク芸術家クラブ(Hamburgischer Künstlerklub)の創立メンバーとなった[1]。このクラブの会員にはエーレン(Julius von Ehren)、アイトナー(Ernst Eitner)、イリース(Arthur Illies )、シャーパー( Friedrich Schaper)、ヴォーラース(Julius Wohlers)、ヘルプスト(Thomas Herbst)らが加わった。
1809年にハンブルクの裕福な実業家で美術収集家のエルンスト・ルンプの支援を受けて、美術学校を開き[1]、最初の学生にはフリードリヒ・アーレルス=ヘスターマンやフランツ・ネルケン、ヴァルター・アルフレート・ローザムがいた。1902年に、ジーベリストの作品としたはよく知られている「学生と私」(Meine Schüler und ich)が描かれた。1903年学生の一人、ゲルトルート・ブリュッケ(Gertrud Bulcke : 1875-1925)と結婚した[1]。1905年にハンブルク芸術家協会(Hamburger Künstlerverein)の会員となり、ドイツ画家協会(Deutscher Künstlerbund)の会員にもなった。