アル・コステロ | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム | アル・コステロ |
本名 | ジャコモ・コスタ |
身長 | 176cm |
体重 | 107kg(全盛時) |
誕生日 | 1919年12月14日 |
死亡日 | 2000年1月22日(80歳没) |
出身地 |
![]() ![]() メッシーナ県サリーナ |
デビュー | 1938年 |
アル・コステロ(Al Costello、本名:Giacomo Costa、1919年12月14日 - 2000年1月22日)は、イタリア出身のプロレスラー。
オーストラリアに移住後、プロレスラーとなって北米に進出。ロイ・ヘファーナンやドン・ケントとの悪役タッグチーム、ファビュラス・カンガルーズ(The Fabulous Kangaroos)のリーダー格として活躍した[1]。
6歳の時に両親とイタリアのサリーナ島からオーストラリアのニューサウスウェールズ州に移住[2]。少年期はボクシングとレスリングで活動し、1938年にプロレスラーとしてデビュー。イタリア系ヒールのキャラクターを強調するために、リングネームはマフィアのアル・カポネとフランク・コステロにあやかって付けられたという[2]。1951年には、隣国のニュージーランドにてオーストラレージアン・ヘビー級王座を獲得した[3]。
1952年よりアメリカへ進出、1950年代前半はサンフランシスコ地区を活動拠点に、エンリケ・トーレスやシャープ兄弟、ロニー・エチソン、レオ・ノメリーニ、ハードボイルド・ハガティ、ボボ・ブラジル、そして日本から修行に来ていた力道山とも度々対戦した[4][5][6]。1954年1月28日にはカリフォルニア州ストックトンにおいて、力道山から勝利を収めている[7]。
1957年、カナダのカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)にて、オーストラリア出身のロイ・ヘファーナンをパートナーにファビュラス・カンガルーズを結成[8]。以降、テキサス、ニューヨーク、ロサンゼルス、フロリダ、バンクーバーなどの主要テリトリーを転戦し、各地のタッグタイトルを獲得した。ヘファーナンの帰豪後は、1967年よりドン・ケントを新パートナーにカンガルーズを再編。1968年1月にはTBS体制下の国際プロレス、1972年11月には日本プロレスに来日している[9][10]。
カンガルーズ以外の活動では、ヘファーナンとの初代カンガルーズ解散後、ドイツ人ギミックのカール・フォン・ブラウナーとジ・インターナショナルズなる反米タッグチームを結成。1966年11月にテキサス州ダラスにて、フリッツ・フォン・エリック&デューク・ケオムカからテキサス東部版のNWA世界タッグ王座を奪取している[11]。ケントとの2代目カンガルーズ解散後の1970年代後半はテネシーのCWAを主戦場に、若手時代のテリー・ゴディ、ロバート・ギブソン、ウェイン・ファリスなどと対戦[12][13]。デニス・コンドリー&フィル・ヒッカーソンのマネージャーも担当して、ジェリー・ローラーやビル・ダンディーとの抗争を指揮した。その後はザ・シーク主宰のデトロイト地区を経て、1979年8月には全日本プロレスに来日している[14]。
セミリタイア後の1980年代前半はプエルトリコのWWCやフロリダのCWFにて、ケント&ブルーノ・ベッカーおよびジョニー・ヘファーナンによる新生カンガルーズのマネージャーとなって活動。引退後は、1987年11月16日に行われたWWFのニュージャージー州メドーランド大会でのオールドタイマーズ・バトルロイヤルに出場した(他の参加選手は、優勝者のルー・テーズ以下、ブラジル、パット・オコーナー、ジン・キニスキー、アート・トーマス、エドワード・カーペンティア、クラッシャー・リソワスキー、キラー・コワルスキー、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、ペドロ・モラレスなど)[15]。 1993年から1994年にかけては、五大湖地区のインディー団体にてデニー・キャスとミッキー・ドイルおよびアル・スノーによってリメイクされたニュー・ファビュラス・カンガルーズのマネージャーも担当した[16]。
2000年1月22日、肺炎のため80歳で死去[17]。没後の2013年、ロイ・ヘファーナンと共にNWA殿堂に迎えられている[18]。