アンディ・パフコ

アンディ・パフコ
Andy Pafko
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ウィスコンシン州ボーイズビル
生年月日 (1921-02-25) 1921年2月25日
没年月日 (2013-10-08) 2013年10月8日(92歳没)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1941年
初出場 1943年9月24日
最終出場 1959年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

アンディ・パフコAndrew "Andy" Pafko , 1921年2月25日 - 2013年10月8日)は、1940~1950年代に活躍したアメリカ合衆国ウィスコンシン州ボーイスビル出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。

ニックネームは"Handy Andy"(ハンディ・アンディ)、"Pruschka"(プルーシュカ)。主に1940年代のカブスで攻守に優れた活躍をした選手。カブスの20世紀のオールセンチュリー・チームの一員に選ばれている。

来歴・人物

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球歴

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1941年にウィスコンシン州のグリーンベイ球団からシカゴ・カブスに入団、メジャーリーグにデビューしたのは2年後の1943年で、この年は13試合に出場し58打数22安打をマークした。翌年からカブスの中堅手としてレギュラーに定着し、3年目の1945年シーズンには12本塁打、110打点を挙げる活躍をし、自身初めてのオールスターゲーム出場を果たすとともに、この年のMVP投票で4位に入った。この年にはワールドシリーズにも出場しているが、カブスは4勝3敗で敗退している。

戦後の1947年から1950年まで、パフコは4年続けてオールスターゲームに出場したが、1948年のオールスターゲームは、外野手ではなく『三塁手』として選出され、『外野手と内野手の両方でオールスターゲームに選出された』数少ない選手の一人になっている。この年パフコは、当時のカブスの名三塁手だったスタン・ハックの引退を受け、その穴埋めのために外野からコンバートされて三塁を守っていた。同年は打撃面が好調で、最終的なシーズン打率は.312、また自身2度目の100打点以上を記録している。1950年シーズンにはリーグ2位の36本塁打を放ち、長打率でもリーグ2位を記録した。"Handy Andy"というニックネームは、外野でも内野でも守れたパフコに対し、監督のチャーリー・グリムが名づけたものである。

1951年シーズン途中に4対4の大型トレードでブルックリン・ドジャースに移籍。その後1953年にミルウォーキー・ブレーブスに移り、引退までブレーブスに在籍した。1957年には自身4度目となるワールドシリーズ出場を果たし、36歳にしてようやくシリーズ制覇を経験することになった。1959年を最後に現役を引退し、引退後は一時期カロライナリーグなどでマイナーリーグの監督をつとめた。20世紀の終わりに、シカゴ・カブスが球団の「20世紀オールセンチュリー・チーム」を選出した際、パフコはその一員として選出されている。

2008年6月12日リグレーフィールドで行われたブレーブス対カブスの試合では、シカゴの放送局WGNが野球のテレビ中継を始めた1948年当時を復刻するイベント(両チームも1948年のユニフォームを着て試合をした)が行われた。このイベントでパフコは久々に観衆の前に登場し、セブンス・イニング・ストレッチで"Take Me Out to the Ball Game"を歌い上げている。

インサイド・ザ・グラブ・ホームラン

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パフコのプレーとして有名なのは、1949年4月30日のカブス対カージナルス戦で起きた出来事であろう。8回まで3-1とカブスがリードしていた9回表、ツーアウトからカージナルスのロッキー・ネルソンの打った打球がレフト方向にふらふらとあがり、センターにいたパフコがこの打球を転倒しながら地面すれすれで処理した。てっきりアウトで試合終了かと思われたが、三塁塁審だったアル・バーリックはパフコが打球を捕球していないと判定を下した。この時グラウンドには紙コップが多数投げ込まれていて、ボールと混同しやすい状況だったという。パフコはグラブに納めたボールを高く掲げバーリックに猛烈にアピールしたが、タイムをかけるのを忘れていて、その間に一塁走者と打者のネルソンがベースを一周してしまった。気がついたパフコも本塁に送球したが、投げた球はホームに滑り込むネルソンに当って跳ね返った。

このプレーの記録はネルソンの2点本塁打となり、結局試合は4-3でカージナルスが逆転勝ちをおさめた。ネルソンのこの一打は、『インサイド・ザ・グラブ・ホームラン[1]』と呼ばれている。

死去

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2013年10月8日、ミシガン州の療養所で死去。92歳没。晩年はアルツハイマー病を患っていた[2]

年度別打撃成績

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O
P
S
1943 CHC 13 61 58 7 22 3 0 0 25 10 1 1 0 2 0 0 5 2 .379 .400 .431 .831
1944 128 512 469 47 126 16 2 6 164 62 2 5 11 28 7 4 23 14 .269 .315 .350 .665
1945 144 608 534 64 159 24 12 12 243 110 5 4 21 45 8 8 36 4 .298 .361 .455 .816
1946 65 273 234 18 66 6 4 3 89 39 4 1 8 27 2 4 15 9 .282 .366 .380 .746
1947 129 550 513 68 155 25 7 13 233 66 4 5 3 31 6 3 39 19 .302 .346 .454 .800
1948 142 606 548 82 171 30 2 26 283 101 3 5 3 50 4 5 50 13 .312 .375 .516 .891
1949 144 592 519 79 146 29 2 18 233 69 4 5 1 63 7 9 33 17 .281 .369 .449 .818
1950 146 595 514 95 156 24 8 36 304 92 4 8 1 69 8 11 32 9 .304 .397 .591 .989
1951 49 199 178 26 47 5 3 12 94 35 1 1 0 17 1 4 10 6 .264 .342 .528 .870
BRO 84 320 277 42 69 11 0 18 134 58 1 4 0 35 2 8 27 8 .249 .350 .484 .834
'51計 133 519 455 68 116 16 3 30 228 93 2 5 0 52 3 12 37 14 .255 .347 .501 .848
1952 150 624 551 76 158 17 5 19 242 85 4 3 4 64 7 5 48 14 .287 .366 .439 .805
1953 MLN 140 568 516 70 153 23 4 17 235 72 2 1 12 37 5 3 33 14 .297 .347 .455 .803
1954 138 570 510 61 146 22 4 14 218 69 1 2 12 7 37 1 4 36 14 .286 .335 .427 .763
1955 86 267 252 29 67 3 5 5 95 34 1 2 1 3 7 1 4 23 8 .266 .293 .377 .670
1956 45 105 93 15 24 5 0 2 35 9 0 0 1 0 10 0 0 13 0 .258 .330 .376 .706
1957 83 235 220 31 61 6 1 8 93 27 1 0 1 3 10 2 1 22 6 .277 .308 .423 .730
1958 95 185 164 17 39 7 1 3 57 23 0 0 2 2 15 3 2 17 3 .238 .306 .348 .654
1959 71 158 142 17 31 8 2 1 46 15 0 0 1 0 14 1 1 15 4 .218 .293 .324 .617
MLB:17年 1852 7028 6292 844 1796 264 62 213 2823 976 38 47 82 15* 561 65 76 477 164 .285 .350 .449 .799

獲得タイトル・記録

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脚注

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  1. ^ ランニングホームランを意味する「インサイド・ザ・パーク・ホームラン」のもじり。
  2. ^ 大リーグ 名外野手が死去 ジャッキー・ロビンソンらとプレー スポーツニッポン 2013年10月11日

出典・外部リンク

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