アントニオ・マリア・エスキベル Antonio María Esquivel | |
---|---|
自画像 | |
生誕 |
1806年3月8日 スペイン、セビリア |
死没 |
1857年4月9日 スペイン、マドリード |
アントニオ・マリア・エスキベル(Antonio María Esquivel y Suárez de Urbina 、1806年3月8日 - 1857年4月9日)はスペインの画家である。人物画、肖像画を専門とした[1]。
セビリアで生まれた。父親は騎兵の将校で1808年にナポレオン戦争におけるバイレンの戦いで戦死した[2]。セビリアの王立美術学校(Real Academia de Bellas Artes de Santa Isabel de Hungría)で学び、17世紀のセビリアの画家、バルトロメ・エステバン・ムリーリョの作品に親しんだ。
結婚した後の1831年にマドリードに移り、王立サン・フェルナンド美術アカデミーに奨学生として入学した。マドリードの知識人たちと交流し、1837年に芸術学校、Liceo Artístico y Literario の設立メンバーになり、解剖学を教えた。
1839年、視力をほとんどなくす病気にかかり、深刻な鬱病に陥ったが、同僚や友人の芸術家たちが費用を負担して、フランスの眼科医の治療を受け、回復した。それらの友人の肖像画がエスキベルの作品の題材となった[2]。
1843年に宮廷画家(Pintor de Cámara)に任じられ、1847年に王立サン・フェルナンド美術アカデミーの会員に選ばれた。美術保全協会(Sociedad Protectora de Bellas Artes)の創立メンバーにもなった。美術史家としての著書も残した。
マドリードで没した。息子のカルロス・マリア・エスキベル(Carlos María Esquivel:1830-1867) とヴィセンテ・エスキベル (Vicente Esquivel:c.1840-1900)も画家になった。