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名前 | ||||||
本名 | アンヘル・ペドラサ・ラミージャ | |||||
ラテン文字 | Ángel Pedraza Lamilla | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1962年10月4日 | |||||
出身地 | セビリア県、ラ・リンコナーダ | |||||
没年月日 | 2011年1月8日(48歳没) | |||||
身長 | 169cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF / MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1982-1985 1982-1983 1985-1988 1988-1995 1995-1997 |
FCバルセロナB ビジャレアルCF FCバルセロナ RCDマヨルカ ソジェール |
67 (13) ? (?) 45 (4) 229 (3) ? (?) | ||||
代表歴 | ||||||
1980-1981 | U-18スペイン | 9 (1) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
アンヘル・ペドラサ・ラミージャ(Ángel Pedraza Lamilla、1962年10月4日 - 2011年1月8日)は、スペイン・セビリア県出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。
息子のマルク・ペドラサもプロサッカー選手であり、RCDエスパニョールの下部組織から2010年にトップチームに昇格した。
セビリア県のラ・リンコナーダに生まれ、FCバルセロナの下部組織に入団して昇格していった。1980年9月16日、ラディスラオ・クバラ監督によってUEFAカップのスリエマ・ワンダラーズFC戦に出場する機会を与えられ、ラ・マシア出身者として初めてトップチームでプレーした選手となった[1]。その後はFCバルセロナBで経験を積み、1982-83シーズンにはビジャレアルCFにレンタル移籍した。1985年夏にトップチームに登録された彼は1986年1月にプリメーラ・ディビシオン(1部)デビューし、その後3年間は主にバックアップとしてチームを支えた。1985-86シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝・FCステアウア・ブカレスト戦は延長そしてPK戦にもつれ込み、ペドラサはPK戦のキッカーを務めたが、他の3選手とともにGKヘルムート・ドゥカダムにセーブされ、PK戦で敗れて準優勝に終わった。
1998年夏には若手のロレンソ・セラ・フェレール監督に誘われて、バレアレス諸島に本拠地を置くRCDマヨルカに移籍し、セントラル・ミッドフィールダーからディフェンダーにポジションを変えた[2]。 1988-89シーズンのセグンダ・ディビシオン(2部)では守備陣に不可欠な存在として3000分以上の出場時間を記録し、プリメーラ・ディビシオン昇格を果たした。1990-91シーズンのコパ・デル・レイでは決勝に進出した。RCDマヨルカでは7シーズンプレーしたが、最終シーズンとなった1994-95シーズン以外の6シーズンでリーグ戦30試合以上に出場し、パルマ・デ・マヨルカ市内に本拠地を置くアマチュアリーグのソジェールで2年間プレーした後の1997年に35歳で現役引退した。
現役引退するとすぐに指導者の道を歩み始め、現役時代に所属したFCバルセロナの下部組織で5年間の間経験を積んだ。2002年には同じ街のRCDエスパニョールの下部組織のコーチに就任し、2004-05シーズンにはRCDエスパニョールBの監督を任された。2005年夏にはセグンダ・ディビシオンB(3部)のベニドルムCFの監督を務め、2シーズン指揮したビジャレアルCF Bと合わせて3シーズンをセグンダ・ディビシオンB(3部)の監督として過ごした。2008年にギリシャ・スーパーリーグのイラクリス・テッサロニキFC監督に就任したが、パニオニオスFCと合わせてわずか1年間でスペインに戻り[3]、2009-10シーズンにはアマチュアのCDアトレティコ・バレアレスを率いてテルセーラ・ディビシオン(4部)優勝とセグンダ・ディビシオンB昇格を果たした[2]。
癌の通告を受けたまま、2010年7月にはセグンダ・ディビシオンBのCEロスピタレートの監督を引き受けたが、わずか3か月後には監督の仕事を辞めざるを得なかった[4]。2011年1月8日、病のために死去した[5]。48歳だった。