ジャイナ教 |
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アーガマ(āgama)は、ジャイナ教の正典である。シッダーンタ(siddhānta)とも呼ばれる[1]。
ジャイナ教の正典として、もっとも古いものには14のプッヴァ(プールヴァ)と12のアンガがあったといい、はじめは師から弟子に口伝で伝えられていた。
シュヴェーターンバラ派(白衣派)の伝承によれば、プッヴァとアンガはマハーヴィーラの没後1世紀半ほどは完全に伝えられていたが、紀元前300年ごろにパータリプトラで結集を行ったところ、12のアンガのうち最後の『ディッティヴァーヤ』(ドリシュティヴァーダ)がすでに失われていることがわかった。伝承によれば『ディッティヴァーヤ』は14のプッヴァよりなっていたとされる。そこで経典を完全に伝えていた最後の人物であるバドラバーフを招こうとしたが、ネパールで瞑想中であったバドラバーフは招きを拒み、かわりにストゥーラバドラに14のプッヴァを授けたが、最後の4つのプッヴァについては他に教えることを禁じたため、プッヴァは完全には伝わらなくなった。残りの10のプッヴァも後に失われたという[2]。
その後、マハーヴィーラの没後980年または993年にカーティヤーワール(現グジャラート州)のヴァラビーで結集が行われた。この時にそれまで口伝だったものを文字に書きとめ、それらの写本を集めて正典を確定したという。ほかにマトゥラーでも結集を行ったという[2][3]。結集ではアンガ以外に60種類の書物が増加したというが、その多くは現在では散佚した[4]。
いっぽうディガンバラ派(空衣派)はマハーヴィーラ没後683年にプッヴァとアンガの知識はすべて失われたと考え、シュヴェーターンバラ派の正典の正当性を認めない[5]。ジャイナ教の正典と言った場合、通常はシュヴェーターンバラ派の正典をいう。
現在の正典の本文は紀元前3世紀から紀元前後のころに書かれたといわれるが、古い部分と新しい部分が混在している[1]。
ジャイナ教の正典は(失われた14のプッヴァを除いて)45部からなると言われているが、その中には現存しないものもあり、また数えかたによっては45よりも多くなる[1]。大別して12(実際には11)のアンガとそれ以外に分かれ、後者はさらにウヴァンガ(12)、パインナ(10以上)、チェーヤスッタ(6または7)、独立経典(2)、ムーラスッタ(4または5)に分けられる。なお、アンガとウヴァンガについては順序が安定しているが、それ以外は文献によって順序が異なる。部数の多い順に機械的に並べられ、パインナが3番目に置かれるが、歴史的にはチェーヤスッタの方が古く、先に来たはずである[6]。
ジャイナ教の正典本文はプラークリット(アルダマーガディー語)で書かれているが、注釈はサンスクリットで書かれる。以下の一覧では「仮名によるプラークリットの書名 ローマ字 / サンスクリット名のローマ字」の形式で書名を記す[7]。
アンガとは四肢を意味する。12篇があったが、最後の第12篇が失われたため11篇になっている。
サンスクリットではウパーンガ(「次の四肢」)。アンガと同様に12篇がある。
サンスクリットではパリシシュタで「その他」を意味する。パインナの数は文献によって異なるが、最もよく現れるのは10部である[6]。
サンスクリットではチェーダスートラ。戒律にあたる。第6篇は失われた。
パンチャカッパのかわりに6-7世紀のジナバドラ『ジーヤカッパ』(ジータカルパ)がチェーヤスッタに含められることがある。
サンスクリットではムーラスートラ。基本的な教義や生活上の義務などをまとめたもの。
ジャイナ教の正典に対して、早く韻文の解説であるニッジュッティ(nijjutti / niryukti)や、バーサ(bhāsa / bhāṣya)が書かれ、さらにチュンニ(cuṇṇi / cūrṇi)という散文による説明が加えられた。これらはプラークリットで書かれた[9]。
8世紀以降になると、サンスクリットで注釈が書かれるようになった[10]。