初代アングルシー伯爵 アーサー・アンズリー Arthur Annesley 1st Earl of Anglesey | |
---|---|
生年月日 | 1614年7月10日 |
出生地 | アイルランド・ダブリン・フィッシャンブル通り |
没年月日 | 1686年4月6日(71歳没) |
死没地 | イングランド・ロンドン・ドルリー・レーン |
出身校 | オックスフォード大学モードリン・カレッジ、リンカーン法曹院 |
称号 | 初代アングルシー伯爵、第2代ヴァレンティア子爵、第2代マウントノリス男爵、初代アンズリー男爵、第2代準男爵 |
配偶者 | エリザベス・アルサム |
初代アングルシー伯爵アーサー・アンズリー(Arthur Annesley, 1st Earl of Anglesey、1614年7月10日 - 1686年4月6日)は、アイルランド出身のイングランドの政治家、貴族。
1614年7月10日、アイルランド貴族の初代ヴァレンティア子爵フランシス・アンズリーとその妻ドロシー(初代準男爵サー・ジョン・フィリップスの娘)の間の長男としてアイルランド・ダブリン・フィッシャンブル通りに生まれる[1]。
1624年にイングランドへ移り[2]、1630年から1634年までオックスフォード大学モードリン・カレッジに入学し、バチェラー・オブ・アーツの学位を取得[1]。1634年にリンカーン法曹院でも学ぶ[2]。
1640年にアイルランドへ帰国[2]。王党派によるオックスフォード議会の議員となったが、後に共和派となり、1645年にはオーウェン・ロー・オニールの反乱計画を阻止するため、アルスターのコミッショナーに就任した[3]。1647年にはラドノーシャー選挙区から選出されて庶民院議員となった[1]。1658年に護国卿リチャード・クロムウェルが招集した第三議会においてダブリン・シティ選挙区から庶民院議員に選出された[2]。また1660年2月には国務会議の議長となり、同年4月の仮議会ではカーマーゼン選挙区から選出されて庶民院議員を務め[2]、王政復古を推進した[3]。
1660年11月に父が死去し、ヴァレンティア子爵位を継承し、ついで1661年4月にイングランド貴族アングルシー伯爵に叙された[1][4]。
チャールズ2世の治世下でも重用され、1667年から1668年にかけては海軍財務長官、1673年から1682年にかけては王璽尚書を務めた[1][2]。
1686年4月6日に死去した。爵位は長男ジェイムズ・アンズリーが継承した[1][4]。
1660年11月22日の父フランシス・アンズリーの死により以下の爵位を継承した[1][5]。
1661年4月20日に以下の爵位を新規に叙された[1][4]。
1638年4月24日に裁判官ジェイムズ・アルサムの娘エリザベス・アルサム (Elizabeth Altham,1614-1686)と結婚。彼女との間に以下の子供たちを儲けた[1][4]。
イングランド議会 (en) | ||
---|---|---|
空席 (前の就任者チャールズ・プライス) |
ラドノーシャー選挙区庶民院議員 1647年 - 1648年 |
空席 (次の就任者ジョージ・グウィン ヘンリー・ウィリアムズ) |
先代 リチャード・タイ |
ダブリン・シティ選挙区選出庶民院議員 1659年 - 1660年 |
次代 サー・ウィリアム・デイヴィス ウィリアム・スミス (アイルランド議会) |
空席 (前の就任者デイヴィッド・モーガン) |
カーマーゼン選挙区選出庶民院議員 1660年 - 1661年 |
次代 ヴォーン卿 |
公職 | ||
先代 サー・ジョージ・カートレット準男爵 |
海軍財務長官 1667年 - 1668年 |
次代 サー・トマス・オズボーン準男爵 サー・トマス・リトルトン準男爵 |
先代 第2代ロバーツ男爵 |
王璽尚書 1673年 - 1682年 |
次代 初代ハリファックス侯爵 |
イングランドの爵位 | ||
爵位創設 | 初代アングルシー伯爵 1661年 - 1686年 |
次代 ジェイムズ・アンズリー |
アイルランドの爵位 | ||
先代 フランシス・アンズリー |
第2代ヴァレンティア子爵 1660年 - 1686年 |
次代 ジェイムズ・アンズリー |