アーニー・ケイドー Ernie K-doe | |
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「ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル」にて(1996年) | |
基本情報 | |
出生名 | Ernest Kador, Jr. |
生誕 |
1933年2月22日 アメリカ合衆国 ルイジアナ州ニューオーリンズ |
死没 |
2001年7月5日(68歳没) アメリカ合衆国 ルイジアナ州ニューオーリンズ |
ジャンル | R&B、ソウル |
職業 | 歌手 |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1954年 - 2001年 |
レーベル | サヴォイ、スペシャルティ、エンバー、ミニット、インスタント、デューク、ジェイナス、アイランド、サンスー |
共同作業者 | アラン・トゥーサン、ブルー・ダイアモンズ、ベニー・スペルマン |
アーニー・ケイドー(Ernie K-Doe、1933年2月22日 - 2001年7月5日[1])は、アメリカ合衆国のR&B歌手である。出生名はアーネスト・ケイドー・ジュニア(Ernest Kador, Jr.)。1961年リリースの「Mother-In-Law」が代表曲。
1933年2月22日、ニューオーリンズ市内のチャリティー病院で生を受ける。父親はバプティスト教会の牧師だった[1][2]。7歳の頃から教会のクワイヤーで歌うようになり、10代になるとゴールデン・チェイン・ジュビリー・シンガーズ、ザイオン・トラヴェラーズといったゴスペル・グループにも参加している[1]。
1950年に母親とともにシカゴに移住。ヴォーカル・グループとして著名なフラミンゴスやムーングロウズで歌う機会を得る[1][2]。ナイトクラブ・シーンでパフォーマンスを続けたものの、シカゴで彼のキャリアが花開くことはなかった。1954年にニューオーリンズに戻ったケイドーは、ヴォーカル・グループのザ・ブルー・ダイアモンズに加入。同グループやソロでデュー・ドロップ・イン、ショー・バーなどのクラブに出演するようになった[2]。
1954年、サヴォイ・レーベルよりブルー・ダイアモンズ名義のシングル「No Money / Honey Baby」でレコード・デビューを果たす[3]。ここでケイドーは力強いリード・ヴォーカルを取り存在感を示した。
翌1955年には、本名アーネスト・ケイドー (Ernest Kador)名義でスペシャルティ・レコードより「Do Baby Do」でソロ・デビューをするに至った[4]。続いてエンバー・レコードからもシングルを出すもののヒットとはならなかった[1]。
1959年、設立されたばかりのミニット・レコード入りをしたことにより、そんなケイドーに転機が訪れた。同レーベルでは、アラン・トゥーサンが彼のソングライティング、プロデュース、アレンジを手掛け、1枚目のシングル「Make You Love Me」では注目を得ることはできなかったものの、続く「Hello My Lover」は10万枚近くを売り上げるローカル・ヒットとなった[1]。
そして1961年、ミニットからシングル「Mother-In-Law」をリリースしR&Bチャート、Billboard Hot 100双方で1位を獲得する大ヒットとなった[5]。尚、この曲でケイドーの合いの手のベース・ヴォーカルを担当しているのは、翌1962年に「Fortune Teller」(ローリング・ストーンズのカバーでも知られる)のヒットを生んだベニー・スペルマンである[6]。
「Mother-In-Law」は当時、日本でもキングレコードより「ままはは」の邦題でシングル盤がリリースされた。後に「いじわるのママさん」との邦題で出しなおされている[7]。
その後もミニットでは「Te-Ta-Te-Ta-Ta」(1961年)、「A Certain Girl」(1961年)などがヒットとなったものの、「Mother-In-Law」に匹敵する大ヒットが再び生まれることはなかった。1963年、ケイドーはミニットの創設者ジョー・バナシャクが新たに立ち上げたインスタント・レコードへ移籍。2枚のシングルをリリースした[8]。しかしながら当時のニューオーリンズのR&Bシーンの衰退も相まって成功を収めることはできず、翌年にはケイドーはデューク・レコードへ移籍している。ここでは、1967年に「Later for Tomorrow」、「Until the Real Thing Comes Along」が小ヒットとなった[1][2]。
1971年、ケイドーは再びトゥーサンと組み、ジェイナスよりアルバム『Ernie K. Doe』をリリースしている。ここに収録された「Here Comes The Girls」は、2000年代に入ってからイギリスの薬局チェーン、ブーツのコマーシャルに使用され、英国、アイルランドでチャート入りするヒットとなった[9][10][11]。
この他1970年代、ケイドーはアイランド・レコード、サンスー・レコードなどからレコードを出している。彼の1976年のニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルでのライヴは、アイランドからリリースとなったライヴ盤『New Orleans Jazz And Heritage Festival 1976』に収録されている[12]。ここで彼は「Taint It The Truth」から「Mother-In-Law」につながるメドレーを熱唱している。
1980年代になると、ケイドーはニューオーリンズのコミュニティ・ラジオ局WWOZで番組を持ち、ショーのホスト役を務めた[13]。1994年にはニューオーリンズ市内のクレイボーン・アヴェニューに自身のバー/ライヴハウス、マザー・イン・ロウ・ラウンジを開店させた[14]。
1990年代、ケイドーは自らを宇宙の皇帝(Emperor of the Universe)と触れ込むようになり、王冠とマントを身につけるなど、皇帝のキャラクターを演じるようになった[15]。1994年にはリー・ドーシーの従姉妹にあたるアントワネット・ドーシーと結婚した[16]。
1997年、ケイドーはリズム・アンド・ブルース・ファウンデーションの主宰するロックンロール・パイオニア賞を受賞している[17]。
2001年7月5日、ケイドーは長年のアルコール中毒に起因する腎不全、肝不全の合併症により死去した。68歳だった[18][13]。
マザー・イン・ロウ・ラウンジは、ケイドーの死去後も、妻のアントワネットが経営を続けた。彼女が2009年に亡くなったあと閉店していたが、2014年にトランペッターのカーミット・ラフィンズが経営権を取得。2022年現在、彼によって営業が続いている[19]。
「Mother-In-Law」がヒットした翌1962年、日本でスリーファンキーズが「いじわるママさん」の名前でカバー・バージョンをリリースしている[20]。また、大滝詠一は、1975年のアルバム『NIAGARA MOON』の中で「Mother-In-Law」を下敷きにした「楽しい夜更かし」を披露している[21]。作詞・作曲は大滝となっているものの、実質上カバーと言っていい内容である。
2008年、イギリスの女性グループ、シュガーベイブスはケイドーの「Here Comes The Girls」をサンプリングした「Girls」をリリース。UKチャートで3位を記録するヒットとなった[22]。