イギリスの音楽(イギリスのおんがく)では、イギリス、イギリス人の音楽について述べる。
イギリスはヨーロッパの一部にあり、ヨーロッパ大陸からいくらか離れたグレートブリテン諸島にある国である。従って、ヨーロッパの音楽文化圏の一部であって、ヨーロッパ大陸の音楽、すなわちイタリアやドイツ、フランスの音楽と、リズム、音組織(音階や和音)などに基本的な違いはない。常に大陸と密接な関わりを持ちながら、発達してきたと言っていい。しかしながら、民族に独特の音楽も持っている。スコットランドのバグパイプの音楽などは、その代表例である。マザーグースなどの童謡、クリスマスキャロル、スコットランドやアイルランドの民謡などは、日本でもよく知られたものが多い。
11世紀以降、セイラム(ソールズベリーの古名)でソールズベリー聖歌が発達し、この聖歌はイギリス国教会の成立まで盛んであった。また、13世紀末の「夏は来りぬ Sumer is icumen in」は、現存する世界最古のカノンである。13世紀前後のフランスのカロルという舞曲がイギリスに伝えられ、14〜15世紀になると多くのキャロルが作られた。キャロルは、500編の歌詞と100曲あまりの旋律が残されている。 14世紀から15世紀には、イギリス独自の3度や6度和音を利用した多声音楽の方法が開発された。イギリスは島国であり、百年戦争で大陸との接触が無くなると、大陸で廃れた技法、例えばノートルダム楽派のイソリズムが使用され続けられ、独自に発展した。百年戦争末期になるとイングランド王国が北フランスを占領し、大陸とイギリスの音楽家の交流が始まった。この時代の重要な作曲家が、リオネル・パワー(1375年頃 - 1445年)とジョン・ダンスタブル(1380年頃 - 1453年)である。特にダンスタブルは、大陸にイギリスの和音の技法を伝えブルゴーニュ楽派を成立させるとともに、イギリスにフランスの新しい技法(フォーブルドン)を伝えた。
テューダー朝のヘンリー8世(1491年 - 1547年)が、1509年に王位についた頃から、イギリスにおける音楽活動は再び盛んになった。このころの宗教音楽の資料として、イートン聖歌隊本(Eton Choirbook イートン・クヮイアブック)が存在する。ヘンリー8世は、音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる作品(合唱曲『Pastime with Good Company』など)が伝えられている。ヘンリー8世は、キャサリン王妃との離婚および、アン・ブーリンとの再婚を巡る問題から教皇クレメンス7世と対立。1534年には国王至上法を発布し、自らをイギリス国教会の長として、ローマ・カトリック教会から離脱した。
このような時代背景の中で、ルネサンス音楽期に活躍した著名な作曲家であるトマス・タリスやウィリアム・バードはラテン語(カトリック)と英語(イギリス国教会)による曲を両方作曲している。とりわけ、バードは、カトリック信者として生涯を送り、イギリス国教会との葛藤から生まれたラテン語のミサ曲は、ルネサンス期を代表する作品である。シェイクスピアの劇中にも登場するトマス・モーリーなどの世俗音楽が盛んになるとともに、ジョン・ダウランドは、優れたリュート作品や歌曲を作曲した。
エリザベス朝時代後期には、イタリアのマドリガーレの刺激を受けて、イングリッシュ・マドリガルが数多く作曲された。トムキンズ、ギボンズ、モーリーなどの作曲家が知られている。また、器楽音楽についても、ルネサンス後期のイギリスでの発展は顕著であった。
ヘンリー・パーセル(1659年 - 1695年)はバロック音楽時代に活躍したイギリスの音楽家である。彼はイタリアやフランスの影響を受けつつ、独自の音楽を生み出したものの、その生涯はわずか36年というものであった。その後、ドイツから移住、帰化したゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年 - 1759年)が活躍した。パーセル死後に生まれたボイス(1711年 - 1779年)、アーン(1710年 - 1778年)、リンリー(1756年 - 1778年)などの作曲家は、古典派直前のイギリスの作曲家である。