イリヤ アレクサンドロヴィチ ムーシン | |
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出生名 | Илья Александрович Мусин |
生誕 |
1904年1月6日 ![]() |
死没 |
1999年6月6日(95歳没)![]() |
学歴 | サンクトペテルブルク音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
イリヤ・アレクサンドロヴィチ・ムーシン(ロシア語: Илья Александрович Мусин;ラテン文字表記:Ilya Aleksandrovich Musin、1904年1月6日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では1903年12月24日)コストロマ - 1999年6月6日、サンクトペテルブルク)は、ロシアの音楽教育者、クラシック音楽の指揮者。
1904年、ロシア帝国コストロマに生まれた。1919年にサンクトペテルブルク音楽院に入学し、最初はピアニストとしてニコライ・ダバソフ(ロシア語: Николай Александрович・Дубасов)とサマリー・サフシスキー(ロシア語: Самарий Ильич・Савшинский)の下で学んだ。1925年からは指揮法を伝説的な巨匠であるニコライ・マルコとアレクサンドル・ガウクについて学んだ。
1934年、レニングラート・フィルハーモニー交響楽団でフリッツ・シュティードリーの副指揮者となった。その後ソビエト連邦政府の指示によりミンスクに移り、ベラルーシ国立管弦楽団を指導した。
戦時中にはタシュケントに疎開し、1942年6月22日に同地でショスタコーヴィチの交響曲第7番を演奏した。これはクイビシェフ(現サマーラ)でのサムイル・サモスードの指揮による初演に続く、同曲の二度目の演奏だった[1]。
しかしムーシンの指揮者としての経歴は必ずしも華々しいものではなかった。彼は本質的には教育者であった。彼は指揮法の詳細な体系、指揮法の「科学」とでもいうべきものを究明しようとした。その試みと考察は、1967年に発表した『指揮法の技術』(ロシア語: Техника дирижирования) に総括されている。ムーシンは自身が打ち立てた体系の基本原則を次のように公式化した。
指揮者は自らのジェスチャーによって音楽を表現しなくてはならない。指揮には音楽に生き生きとした豊かな表情を与えることと、アンサンブルの技術的な側面との二つの要素がある。これらは互いに弁証法的に対立する関係にあり、指揮者は両者を融合させる方策を見出さなければならない。
1932年にはすでにレニングラート音楽院で教育活動を始めており、教育者としての経歴は60年以上にもわたった。教え子には次のような著名な指揮者がいる。
彼の教育体系は世代を越えて、直接の弟子から若い指揮者へと受け継がれている。なお、彼自身の指揮者のキャリアも長く、94歳まで演奏会で指揮をした。
1998年[2]に来日し、京都市交響楽団を指揮した。既に高齢であったムーシンは演奏できるかどうか直前まで確定していなかったが、当日には元気な姿で演奏した。ムーシンはその翌年に死去したため、生涯で唯一の来日演奏会となった。
1999年、サンクトペテルブルクにて死去。
指揮法の理論家としてフィンランドのヨルマ・パヌラ、オーストリアのハンス・スワロフスキーやカール・エスターライヒャー、イタリアのフランコ・フェラーラ、日本の斎藤秀雄と並ぶ卓越した存在であり、「サンクトペテルブルク指揮楽派」「レニングラード指揮楽派」[3]の創始者である。