ウィスキー・スピーチとは、アメリカ合衆国のミシシッピ州議員ノア・スウェットが1952年におこなった、禁酒法を巡る政治演説のこと。英語圏ではもしウイスキーによって(If-by-whiskey)というフレーズが、聞き手の意見によって話者の立場が変わってしまう相対主義の誤謬として知られる。ダブルスピークを用いた「もしウィスキーによって」という論法は、ある問題に関して対立している意見の両方を支持するようにみえるし、聞き手がどちらを支持する側であろうとそれに賛同しているかのようにみえる。つまり実質的に、どの立場にも立っていないのにある立場をとっているのである[1]。この論法は、きわめて肯定的だったり否定的な意味合いを持った言葉を使ってなされるのが一般的である(例えば、ネガティブな「テロリスト」と、ポジティブな「自由の闘士」)[2]。似た言葉に「八方美人」(all things to all people)があり、政治の世界でたびたび言及されるが、好ましくないものとされる[3]。
州議員であった若きノア・スウェットが1952年に行ったこのスピーチは、ミシシッピ州が酒規制を続けるか(結局これは1966年まで続いた)それとも合法化するかを巡って行われたものである[4]。
皆様、私はこの論争的なテーマにつきまして、まさにいまこの場所で論じようという意図はございません。しかしながら、皆様には私が論争を避けて通ろうとしているわけではないこともご理解いただきたいのです。むしろ反対でありまして、どれほど議論が巻き起ころうとも、いかなる時であれいかなる議題であれ私は何らかの立場をとる所存であります。もしも皆様がウイスキーという言葉で、それが悪魔の酒であり、災いの毒薬であり、化け物の血であり、純潔をそこない、理性をしりぞけ、家庭をこわし、苦悩と貧困をうみだすものであり、ひいては文字通り幼い子どもの口からパンを奪いさるといいたいのであれば、もしも皆様が、正義の高みからキリスト者の男と女を追い落とし、その暮らしを頽廃、絶望、恥辱、無力感と無能感の底なし沼へと追いやる悪魔の飲み物であるというのであれば、私は明確にこれに反対いたします。
しかしながらもしも皆様が、会話の潤滑油であり、知を愛する者のワインであり、よき人々が集うときに振る舞われるエールであり、飲むものの心に歌を留め、唇に笑いを、瞳に満足感の暖かなひかりを加えるものであるというのであれば、もしも皆様がクリスマスのごちそうであり、身の引き締まるような凍てつく朝に散歩をする老紳士の足取りに春を呼び込む元気の源であるというのであれば、飲む人の喜びや幸せをせしめ、わずかな間とはいえ、人生の大いなる悲劇を、苦悩を、後悔を忘れることができる飲み物であるというのであれば、その売り上げが莫大な収入につながり、それが国庫となって我が国における身体の不自由な子ども、目の見えない、耳の聞こえない人、言葉の不自由な人、哀れにも老いて衰弱した人々への篤い支援を提供することに使われてきたというのであれば、高速道路をつくり、病院や学校を建てるのに使われてきたというのであれば、私は明確にこれに賛成するものです。
これが私の主張です。ここから後退することはありません。妥協することもありません。
アメリカの作家、ウィリアム・サファイアはニューヨークタイムズ紙上のコラムでこのウィスキー・スピーチを世に広めたが、その発言者を誤ってフロリダ州知事のフラー・ウォーレンとしていた[5]。サファイアは後に自著でこれについて訂正を行っている[1]。
ウィスキー・スピーチにおける「もしもウィスキーによって」という論法は、他の論争的な話題にも派生している。たとえば「もし大麻によって」[6]や、もし「神によって」[2]といった具合である。