William Worthington ウィリアム・ウォーシントン | |
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生年月日 | 1872年4月8日 |
没年月日 | 1941年4月9日(69歳没) |
出生地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州トロイ |
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ |
職業 | 俳優、映画監督 |
ジャンル | サイレント映画、トーキー |
活動期間 | 1913年 - 1941年 |
ウィリアム・ウォーシントン(William Worthington, 1872年4月8日 - 1941年4月9日)は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督である[1]。
1872年(明治5年)4月8日、アメリカ合衆国のニューヨーク州トロイに生まれる[1]。
1913年(大正2年)、セリグ・ポリスコープ・カンパニー製作の短篇映画 The Old Clerk の脚本を書き、出演して、映画俳優としてデビューする[1]。次作は同年、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)傘下となったヴィクター・フィルム・カンパニー(かつてのヴィクター・スタジオ)製作、アラン・ドワン監督、J・ウォーレン・ケリガン主演の短篇映画 The Restless Spirit であった[1]。1914年(大正3年)、同じくユニヴァーサル傘下のレックス・モーション・ピクチャー・カンパニーが量産するオーティス・ターナー監督、ハーバート・ローリンソン主演の短篇映画にレギュラー的に出演する[1]。同年、ユニヴァーサル・ゴールド・シール製作、オーティス・ターナー監督の The Opened Shutters で初めて長篇映画に出演、以降、ローリンソンと同格の扱いとなる[1][2]。
1915年(大正4年)、 The Grail を監督して、監督業に進出、ローリンソンを主演とした短篇映画を量産する[1]。1916年(大正5年)にユニヴァーサル傘下に設立されたブルーバード映画では、『死の舞踏』、『旅の人』、翌1917年(大正6年)の『悪魔の勘定日』等8本の中篇劇映画を監督[1]、3作が日本でも公開された[3]。1923年(大正12年)、ゴールドウィン・ピクチャーズに移籍する[1][4]。
1925年(大正14年)、『恋文御用心』を最後に映画監督を引退する[1]。俳優業に復帰、以降、ユニヴァーサル、フォックス、ワーナー・ブラザースと各社に主演ではないが晩年まで出演をつづけた[1]。
1941年(昭和16年)4月9日、カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビバリーヒルズで死去した[1]。満69歳没。ハリウッド・フォーエヴァー墓地に眠る[5]。