第2代アルベマール伯爵ウィリアム・アン・ヴァン・ケッペル(英語: William Anne van Keppel, 2nd Earl of Albemarle KG KB PC、1702年6月5日 - 1754年12月22日)は、グレートブリテン王国の外交官、廷臣。フランス駐在イギリス大使を務めた(在任:1748年 - 1754年)ことで知られる。
初代アルベマール伯爵アーノルド・ジョースト・ヴァン・ケッペルの長男として、1702年6月5日にホワイトホールで生まれ、アン女王を名付け親に洗礼を受けた[1]。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で教育を受けた後、帰国して1718年に父の称号と遺産を継承した[1]。1722年、ヘルダーラント州の領地でミュンスター司教クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンを接待した[1]。1725年にバス勲章を授与され、1727年に国王のエー=ド=カンに任命され、1731年11月22日にアルベマール伯爵の歩兵連隊長に任命され、1733年5月7日に第3乗馬衛兵隊長に任命されるまで務めた[1]。
1737年にバージニア王立植民地総督に任命され、1739年7月に准将に、1742年2月に少将に昇進した[1]。1742年にステア伯爵とともにフランドルに向かってオーストリア継承戦争に参戦、翌年のデッティンゲンの戦いにも参加した後、1744年10月にコールドストリーム近衛歩兵連隊長に転じた[1]。1745年のフォントノワの戦いで負傷した後、1746年のカロデンの戦いではカンバーランド公爵の戦列の最前列を率いた[1]。その後は再びフランドルを転戦、1747年のラウフフェルトの戦いに参加した[1]。1748年のアーヘンの和約の後、パリ駐在大使に任命され、1749年にガーター勲章を授与された[1]。翌年に枢密顧問官とグローム・オブ・ザ・ストールに任命され、1752年に国王ジョージ2世がハノーファーを訪れてイギリスを留守にしたときはlord justiceの1人を務めた[1]。1754年、パリに派遣され、米州でフランスに留置されたイギリス国民の解放を求めたが、同年12月22日にパリで急死した[1]。遺体はイギリスに移送され、ロンドンのチャペルに埋葬された[1]。
1723年、アン・レノックス(初代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの娘)と結婚、8男7女をもうけた[1]。
ホレス・ウォルポールはアルベマール伯爵を「浪費家伯爵」(the spendthrift earl)と呼び、パリのイギリス大使館が維持されたのはアルベマール伯爵のおかげであるとした[1]。1723年に結婚した時点で9万ポンドの財産があり、妻にも25,000ポンドの財産があるにもかかわらず、14,000ポンドを残してほかは全て散財し、債務返済にも子供たちにもほとんど残さなかった[1]。そのためか、ジョージ2世はアルベマール伯爵の未亡人アンに1,200ポンドの年金を与えた[1]。
官職 | ||
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先代 オークニー伯爵 |
バージニア王立植民地総督 1737年 - 1754年 |
次代 ラウドン伯爵 |
外交職 | ||
先代 なし オーストリア継承戦争につき |
フランス駐在イギリス大使 1748年 - 1754年 |
次代 なし 七年戦争につき |
軍職 | ||
先代 ヘンリー・ディズニー |
アルベマール伯爵の歩兵連隊長 1731年 - 1733年 |
次代 ジョージ・リード |
先代 チャムリー伯爵 |
第3乗馬衛兵隊長 1733年 - 1744年 |
次代 ティローリー男爵 |
先代 マールバラ公爵 |
コールドストリーム近衛歩兵連隊長 1744年 - 1754年 | |
宮廷職 | ||
先代 ペンブルック伯爵 |
グローム・オブ・ザ・ストール 1751年 - 1754年 |
次代 ロッチフォード伯爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 アーノルド・ジョースト・ヴァン・ケッペル |
アルベマール伯爵 1718年 - 1754年 |
次代 ジョージ・ケッペル |