Estadio Jorge Luis Hirschi Jorge Luis Hirschi Stadium | |
Estadio Uno UNO | |
サッカー競技中のスタジアム (2022年) | |
概要 | |
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住所 |
ラ・プラタ アルゼンチン |
所有者 | エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ |
座席数 | 32,530 |
会場寸法 | 105 x 68 |
表面 | ハイブリッド芝 |
建設 | |
開業 | 1907年12月25日 |
改築 | 2008–2019 |
再開業 | 2019 |
利用 | |
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ウェブサイト | |
estudianteslp.com/estadio |
エスタディオ・ホルヘ・ルイス・ヒルシ(スペイン語:Estadio Jorge Luis Hirschi)は、アルゼンチンのラプラタにあるサッカースタジアム。ホルヘ・ルイス・ヒルシ・スタジアム(英語:Jorge Luis Hirschi Stadium)ともいう。プロクラブ、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの本拠地である。愛称はエスタディオ・ウノ(Estadio Uno)または単に「UNO」[1][2]。
パセオ・デル・ボスケ公園(Paseo del Bosque park)に初代スタジアムが作られ、1907年12月25日に、エストゥディアンテス・フィールド(Estudiantes Field)としてオープンし、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの本拠地となった。
スタジアム南端で1番通りと57番通りが交差することから、「1 y 57(1と57)」「UNO(1)」とも呼ばれる[4][5]。
1927年から1932年までエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの会長を務めたホルヘ・ルイス・ヒルシ(Jorge Luis Hirschi)にちなんで、彼が死去した1970年に現在のスタジアム名となった。
初代スタジアムは、屋根付きスタジアム以外 ほぼ木製のため危険性が指摘され、2005年に一部閉鎖、2007年に解体され、その後、同じ場所で新しいスタジアム建設工事が始まった[4]。
2019年11月9日に現在のスタジアムがオープンした[2][3]。
1906年、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタは、サッカーの公式試合用の本拠地グラウンド建設を計画。1番通りと57番通りが交差する北側の土地を、ブエノスアイレス州から譲られた。1907年12月25日、観客収容2,000人のエストゥディアンテス・フィールド(Estudiantes Field)がオープンした[2]。
1911年には屋根付きのスタンドが建設された。1937年には照明が新設され、アルゼンチンで初めて夜間試合を開催する会場となり、ウルグアイのペニャロールとの親善試合が行われた[6]。
これらの設備により、1938年にエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタは、アルゼンチンとウルグアイのクラブが競う当時のトーナメント、Torneo Internacional Nocturno Rioplatense(トルネオ・インテルナシオナル・ノクトゥルノ・リオプラテンセ)に参加できるようになった[7]。1938年2月19日のプリメーラB・ナシオナルとの対戦は「la noche de las camisetas ensangrentadas(血まみれシャツの夜)」と呼ばれる激戦だった[8][7]。
スタンドは1940年代に改築されたが、1960年に火災で焼失し、その後コンクリートで作られた屋根付きのスタンドに置き換えられた。このスタンドは2007年に会場が取り壊されるまで使用された[4]。
エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタで選手や役職などで活躍したホルヘ・ルイス・ヒルシにちなんで、彼が死去した1970年からスタジアム名称を「エスタディオ・ホルヘ・ルイス・ヒルシ(Estadio Jorge Luis Hirschi)」とした[9]。
2005年9月、木製スタンドを禁止する法律により、スタジアムが閉鎖された。エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタは、裁判所の閉鎖差し止め命令を根拠に使用継続を主張。ラプラタ市はそれを拒否した[10]。このためエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタは、5km離れたエスタディオ・シウダ・デ・ラ・プラタ(Estadio Ciudad de La Plata、愛称Único)にホームグラウンドを移し、最終的に13年間過ごした[11]。
2006年8月、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタとラプラタ市が、観客席2万人の新スタンドを建設することで合意した[12]。天然芝と人工芝とのハイブリッドのフィールドで、再生可能エネルギーも使用する[4][13]。
2019年11月9日、新スタジアムがオープンし、14年ぶりにエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの本拠地として復活した[14][3]。11月30日に初の公式試合がエストゥディアンテスとアトレティコ・トゥクマンとで行われ[4]、1-1の引き分けとなった[15]。
2024年8月31日、ザ・ラグビーチャンピオンシップ2024の会場の1つとして、アルゼンチン代表(ロス・プーマス)とオーストラリア代表とが対戦。ラグビーユニオンの代表チームがこの会場で試合をするのは初めてとなる[1][16]。
ホルヘ・ルイス・ヒルシ(Jorge Luis Hirschi、1889-1970)は、1905年にサッカークラブ エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタが設立された直後に加入、44番目の選手会員となった。当時、クラブではラグビーのセクションもあったため、ラグビーもプレーした[17]。
右ウイングまたはセンターフォワードとしてプレーし、1911年にプリメーラ・ディビシオンに昇格したチームにおいて、最多得点者となった。1914年にサッカーから引退するまでエストゥディアンテスでプレーした。その頃までに、医学の学位を取得し、ラ・パンパ州に移り医師として働き、その後ラ・プラタに戻った[17]。
1927年、エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタの会長に選出され、1932年まで務めた。会長在任中、エストゥディアンテスの会員数は300人から8,000人に増加。クラブ会長を退任後、政治家としてのキャリアを始め、1932年にはラプラタ市長を務めた[17]。
1970年に死去。当時のクラブ会長マリアナオ・マンガノ[18]の提案により、スタジアムにヒルシの名前を冠するようになった[9]。
新築工事中は、別のスタジアム名(「ティエラ・デ・カンペオネス(Tierra de Campeones = チャンピオンの国)」や「オスバルド・スベルディア(Osvaldo Zubeldía、他の選手の名前)」)などの案もあったが、エスタディオ・ホルヘ・ルイス・ヒルシの名称は残された[19]。