エトロン・フー・ルルーブラン Etron Fou Leloublan | |
---|---|
別名 | EFL |
出身地 | フランス |
ジャンル |
アヴァンギャルド・ロック プログレッシブ・ロック ロック・イン・オポジション |
活動期間 | 1973年 - 1986年 |
レーベル |
セルロイド・レコード RecRecミュージック |
共同作業者 | フレッド・フリス |
旧メンバー |
クリス・シャネ (ユーラリー・ルイナ) ギグー・シュヌヴィエ フェルディナン・リシャール フランシス・グラン ベルナール・マチュー ジョー・ティリオン ブルーノ・メイエ |
エトロン・フー・ルルーブラン[1](Etron Fou Leloublan、フランス語で意味は「狂った糞、白い狼」[nb 1])は、EFLとしても知られ、1973年に俳優にしてサックス奏者のクリス・シャネによって結成されたフランスのアヴァンギャルド・ロック・バンド。1976年から1985年の間に5枚のスタジオ・アルバムを録音し、1979年のアメリカ・ツアー中に録音されたライブ・アルバム『合衆国に殴り込み!(ライヴ・イン・N.Y.)』をリリースした。エトロン・フー・ルルーブランは、 1978年3月にロンドンで開催された最初の「RIOフェスティバル」に出演したロック・イン・オポジション(RIO)のバンドでもある。
エトロン・フー・ルルーブランの音楽は、パンク・ロック、ジャズ、フランスのミュージック・ホール、コメディ的な風刺、「前衛的な騒乱」をブレンドしたものとして説明されている[2]。
エトロン・フー・ルルーブランはもともとエトロン・フーと呼ばれ[5]、ボーカリスト兼サックス奏者のユーラリー・ルイナ(本名クリス・シャネ)、フェルディナン・リシャール(ベース)、ギグー・シュヌヴィエ(ドラム、パーカッション)で構成されていた。彼らの最初のコンサートは、1973年12月27日にフランスのプログレッシブ・ロック・バンド、マグマのためのオープニング・アクトであった[5][6]。エトロン・フーは「フレンチ・ロックンロールとフレンチ・フリー・ジャズの両方を兼ね備えた音楽作品」を生み出し続けたが、それは当時停滞していたシーンでもあった[6]。1976年11月に彼らはエトロン・フー・ルルーブランに名前を変更し、最初のアルバム『大道芸人稼業』(1977年)を録音した。アルバムがリリースされる前に、シャネはバンドを脱退した。
1977年の終わりごろ、フランシス・グランがサクソフォンでシャネに代わって加入し、3人組でセカンド・アルバム『三狂人珍道中』を録音した。1978年3月、イギリスのアヴァンギャルド・ロック・グループであるヘンリー・カウの招待で、ロック・イン・オポジション(RIO)に参加し、ロンドンで行われた最初の「RIOフェスティバル」で他の4グループと共演した[7]。また、1979年4月にミラノで開催され、RIOのイタリア代表であるストーミー・シックスが主催したRIOによる2回目の「RIOフェスティバル」にも参加している。1979年11月、エトロン・フー・ルルーブランはアメリカをツアーし、ニューヨーク市のスクワット・クラブとコネチカット州ハートフォードのトリニティ・カレッジでの公演が録音され、ライブ・アルバム『合衆国に殴り込み!(ライヴ・イン・N.Y.)』としてリリースされた。
エトロン・フー・ルルーブランは、ベルナール・マチューがサックスのグランに代わって加入し、マルチ楽器奏者で歌手のジョー・ティリオンも加わって、1980年にカルテットとなった。1980年の半ばに、バンドはフランスとスイスで元ヘンリー・カウのギタリストであるフレッド・フリスとレコーディングを行い、1981年のフリスのソロLP『スピーチレス』の片面に登場した。フリスはエトロン・フー・ルルーブランの次のアルバム『肺ふくらませて』(1982年)をプロデュースし、ヴァイオリンとギターを演奏して2曲にゲスト参加した。5枚目のアルバム『大地に刻んだ溝』(1984年)では、サックス奏者が再び交代し、マチューからブルーノ・メイエへと代わった。
エトロン・フー・ルルーブランは、1985年8月にリシャール、ティリオン、シュヌヴィエのトリオで最後のアルバム『Face Aux Éléments Déchaînés』をレコーディングした。フリスはアルバムをプロデュースし、4曲でゲストを務めている。バンドは1986年に解散することとなった。