エドゥアール・リスラー Édouard Risler | |
---|---|
![]() | |
基本情報 | |
生誕 |
1873年2月23日![]() ![]() |
死没 |
1929年7月22日(56歳没)![]() |
ジャンル | クラシック |
職業 | ピアニスト |
ジョゼフ=エドゥアール・リスラー(リスレル、Joseph-Édouard Risler, 1873年2月23日 - 1929年7月22日)は、ドイツ出身のフランスのピアニスト。
リスラーはドイツ帝国に属するバーデン大公国のバーデン=バーデンに生まれた。母はドイツ人で、父はアルザス出身であった。リスラーはパリ音楽院に在学中の1883年から1889年にかけて、ルイ・ディエメ、テオドール・デュボワ、エミール・デコンブらに師事した。1889年のパリ万国博覧会でのリスラーの演奏がテオ・ヴァンゲマンによって捉えられており、これは音楽録音の最初期の物の1つとなっている[1]。1891年にエマニュエル・シャブリエと親しく付き合うようになったリスラーは、この年長の作曲家の元を訪れたり書簡をやり取りしたりするようになった[2]。その後、彼はドイツにおいてカール・クリントヴォルト、オイゲン・ダルベール、ベルンハルト・シュターフェンハーゲンらに学んで学習を完了させた。彼は1896年にはバイロイト祝祭劇場においてコレペティートルを務めた。
リスラーはまもなくフランス出身の重要なピアニストとして、ドイツ・ロマン派並びに同時代の音楽にも寛容だった当時の音楽界で頭角を現していった。彼は大規模な演奏会シリーズを複数催している。1905年の10月から12月にかけてサル・プレイエルで行われたベートーヴェンの32曲のピアノソナタ全曲演奏会や、ショパンの全曲演奏会、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』全曲演奏会などである。
1906年以降、リスラーは後進の指導に精力を注ぐようになり、1923年にはパリ音楽院の教授に就任した。彼はエミール・ジレット(Émilie Girette)と結婚した。アマチュア歌手であった彼女のために、ガブリエル・フォーレは歌曲を数曲作曲している。リスラーはレイナルド・アーンと日常的に手紙を送り合う仲で、1908年4月にはサル・エラールにおいてアーンの『ソナチネ ハ長調』を初演した。リスラーはパリに没した。
リスラーはシャブリエから『気まぐれなブーレ』[注 1]、エンリケ・グラナドスからは『ゴイェスカス』より「窓辺の語らい (Coloquio en la reja)」の献呈を受けている。また、リスラーはリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』のピアノ編曲を遺している[注 2]。
リスラーは下記のような著名な作曲家の作品の初演を担っている。
リスラーの遺した録音は1917年にPathéによってなされた18曲から成り[3]、全曲が2007年にMarston Recordsより『Édouard Risler: Pathé Paper-Label Discs, Paris 1917』というタイトルで発売された。また、Symposiumレーベルからも2002年に全曲がリリースされており、Piano Libraryからも1999年に大部分が含まれる形で出されている。
注釈
出典