エドワード・ヘンリー・ハリマン (Edward Henry Harriman, 1848年 2月20日 - 1909年 9月9日 )は、アメリカ合衆国 の実業家 。W・アヴェレル・ハリマン の父。
エドワード・ヘンリー・ハリマンは、1848年 2月20日 、聖公会 牧師 オーランド・ハリマンとコーネリア・ニールソンの次男としてニューヨーク ・ヘンプステッドに生まれる[ 1] 。なお、曽祖父ウィリアム・ハリマンは1795年 にイングランド から移住し、商取引に携わった人物であった。
14歳で学校を卒業した後、叔父オリバー・ハリマンが勤めていた伝手を頼りウォール街 で事務員として働き始めた[ 2] 。当初は雑用係のような仕事をしていたが、その頃から「金には鼻がきき」、22歳の時にニューヨーク証券取引所 の会員となって株式取引所仲買人となった[ 2] [ 3] 。
妻のメアリーと(1909年)
ウォール街の相場師 として活躍していたハリマンは、1879年 、31歳でニューヨークの銀行家ウィリアム・J・アヴェレルの娘メアリー・ウィリアムソン・アヴェレル (英語版 ) と結婚した[ 4] 。
義父アヴェレルはシャンプレーン湖 沿岸にある鉄道会社の社長も務めており、ハリマンは彼の影響を受け鉄道に関心を抱くようになった。
1881年 、ハリマンはオンタリオ湖 沿岸にある破産した鉄道会社を買収し、会社を再建した後にペンシルバニア鉄道 へ権利を売却し莫大な利益を得た。1883年 にはイリノイ・セントラル鉄道の経営に参加した[ 3] [ 2] [ 5] 。
1893年恐慌 のなかでユニオン・パシフィック鉄道 の再建に成功し[ 2] 、1897年 、同鉄道の執行委員長に就任し、1898年 5月まで在任した。また、この頃にユニオン・パシフィックの主導権を確立し、死去するまで会社に影響力を持ち続けた[ 2] [ 5] 。ほとんど学校教育を受けられなかったハリマンには無骨な面があり、マンハッタン の社交界になじまず、変人扱いされていた[ 3] 。
1899年 、アラスカ州 沿岸の動植物の研究採取を試みる科学者を後援し、自社の蒸気船 「ジョージ・W・エルダー」号を科学者たちに提供している[ 3] 。このアラスカ遠征は、歴史家のウォルター・マクドゥーガル (英語版 ) によれば、かかりつけ医から休養するよう診断されたハリマンが、富を名声に変化させる方法として、名士中の名士であるセオドア・ルーズベルト を範として、「科学の保護者」にして「紳士的冒険家」たらんことを思いつき、それを実行に移したものであるという[ 3] [ 注釈 1] 。表向きは休暇だったが、ハリマンにとっては、アラスカに鉄道を建設し、さらにベーリング海峡 を横断してシベリア鉄道 につなぎ、世界をつなぐ鉄道王となる夢を追い求める旅でもあった[ 3] 。以後、ハリマンの周囲では1907年 頃までノーム の金選鉱鍋の夢と同時にベーリング海峡横断鉄道の話は繰り返された[ 3] 。
1901年 にはサザン・パシフィック鉄道 を買収し、同社の社長に就任した[ 5] 。このとき、ユニオン・パシフィックとシカゴ とを結ぶバーリントン鉄道 の支配権をめぐってグレート・ノーザン鉄道 会長のジェームズ・ジェローム・ヒル と争い、1901年恐慌 の原因をつくった[ 5] 。1903年 にはユニオン・パシフィック鉄道の社長に就任した[ 2] 。
日露戦争 中には、ニューヨーク金融界の覇者と言われたジェイコブ・シフ と共に、日本の戦時公債500万ドル分を引き受けた[ 6] 。著名な鉄道ビジネス家であったハリマンは、ポーツマス条約 締結の前後に南満州鉄道 の買収を目的として2回訪日している。
ハリマンは1905年8月、日本銀行 の高橋是清 副総裁と大蔵次官 の阪谷芳郎 の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム (英語版 ) 駐日アメリカ合衆国公使 の招きによって、クーン・ローブ商会 のジェイコブ・シフ らとともに訪日した[ 6] [ 7] 。ハリマン一行がニューヨーク を出発したのが8月10日 、サンフランシスコ を経由して横浜港 に到着したのが8月31日 であり、外相の小村寿太郎 がポーツマス講和会議全権として渡米中のことであった[ 6] 。
ハリマン一行は、大蔵省・日本銀行・横浜正金銀行 などの職員に出迎えられ、銀行関係者が設けた歓迎の晩餐会 に出席したのち、9月1日 に東京に入ったのちは連日、伏見宮博恭王 、桂首相、曽根荒助 蔵相、井上馨、渋沢栄一 、岩崎弥之助 らのもてなしを受け、9月4日にはグリスカム公使主催の大園遊会 、5日には曽根蔵相による晩餐会が盛大に開かれた[ 6] 。5日は、ポーツマス条約調印日にあたっており、晩餐会の帰途、ハリマン自身は怪我はなかったが赤坂溜池 付近で激昂した群集から投石を受け、ハリマン自身は無事だったが、一行のなかには怪我をした者がいた[ 8] [ 注釈 2] 。翌9月6日 に予定されていた華族会館での歓迎会は中止され、日本鉄道 の特別列車で日光 へ旅行した[ 6] 。なお、これに先立ち、日比谷 の三井集会所において、黒龍会 の内田良平 が日本古来の武術 の模範演技を彼らに披露している[ 9] 。一行のなかにはレスリング に心得のある者もいて柔道 に興味をもった者がいたが、小柄な内田があまりにも簡単に相手を投げ飛ばすのが不思議で、内田に試合を申し込んだところ、やはり簡単に投げ飛ばされてしまったので一行は日本の柔術 の素晴らしさに驚嘆したという[ 8] 。首都での暴動が鎮まったのち、東京に戻り、明治天皇 に拝謁した[ 6] 。
また、訪日中は東京市 赤坂 の米国公使館 を介して、南満州鉄道の買収及び米国資本投下を桂内閣 や伊藤博文 など日本の政治家に働きかけた[ 9] 。ハリマンは、世界を一周する鉄道網の完成という遠大な野望をいだいていた[ 9] 。南満州鉄道 の買収は、東支鉄道 やシベリア鉄道 に関するロシア帝国 との折衝に良い影響をもたらすとして、当鉄道の買収を日本政府に打診した[ 9] 。桂太郎 をはじめとする一部の政治家は、日露戦争後の戦費の負債から興味を示し、具体案の提示をハリマンに求めた[ 9] 。
これに手応えを感じたハリマンは具体案作成のために南満州鉄道の視察が必要であるとして、同年9月中旬に日本を離れて大韓帝国 と清国 北部へ渡り、南満州鉄道を視察した。同年10月9日に改めて訪日して再び東京へ戻ると、桂内閣に南満州鉄道に関する協定を提案した。桂内閣に求めた協定は、南満州鉄道及び大連など近辺の付随施設の均等な代表権利と利益の折半であった。また、日本の管理下に置いて法律を適用し、鉄道敷設周辺の地において戦闘や戦乱が発生した場合は、日本側が対処及び安全を保証することなどの要望も含まれていた。協定条件として約1億円という破格の財政援助を持ちかけて、南満州鉄道 の共同経営を希望する内容であった。
この協定に桂内閣では、外資が急務としてハリマンの協定に賛同する意見と、ハリマンと入れ替わるように訪米していた小村外務大臣の帰国後まで待ち、小村からのポーツマス条約についての詳細報告後に判断したいという意見に分派したことから、ハリマンが米国へ向けて帰国出発する10月12日には調印に至らず、ハリマンの求めで非公式な覚書を交わすのみとなった[ 9] 。すなわち、仮契約のかたちで予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、外交責任者である小村の了解を得てからのこととしたのである[ 6] [ 10] 。同年10月15日の小村外相帰国後に、桂内閣内で講和条約を踏まえて同案件が検討されたが、講和条約第6条に影響する内容が含まれることが判明したことから、ハリマンの買収案は成功しなかった[ 9] [ 注釈 3] 。
帰国後の小村の報告により、ハリマン=クーン・ローブ 連合のライバルであるモルガン商会 (英語版 ) から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことが判明し、井上馨 や伊藤博文 らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた[ 7] 。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府は覚書破棄のメッセージをアメリカ合衆国の日本領事館 に打電し、ハリマンはサンフランシスコ の港に降り立つやそのメッセージを受け取った[ 6] 。
なお、ハリマンは日本滞在中に柔術に関心を抱くようになった[ 13] 。ハリマンは、柔道家の富田常次郎 ・前田光世 や6つの柔術・力士 団体と共に帰国し、1906年 2月7日 にはコロンビア大学 で公演を開き600人の観客を集めた[ 14] [ 15] 。
1907年 に描かれた風刺画。州際通商委員会 の規制対象となったハリマンと鉄道を描いている。
ハリマンはユニオン・パシフィック鉄道とサザン・パシフィック鉄道の統合を目指したがかなわなかった。
1909年 9月9日、ハリマンはニューヨーク・アーデンの自宅で死去し、アーデンにある聖ジョーンズ教会に埋葬された[ 1] [ 16] 。ハリマンの死去に際し、1899年のアラスカ調査に参加したジョン・ミューア は「ほぼ全てにおいて、彼は称賛すべき人物だった」と賛辞を贈った[ 17] 。
ハリマン死去後の1913年 、ユニオン・パシフィック鉄道とサザン・パシフィック鉄道は合衆国最高裁判所 により経営権を分離されてしまった。最終的に統合が実現するのは1996年 になってからのことである。
^ 綿密な計画のもと、自社の鉄道などを用いてアメリカ西海岸 を経由し、ジョージ・W・エルダー号に乗り込んだのは、ハリマン夫婦と5人の子ども、4人の親類、3人の使用人であり、この船には乗員65人、科学者23人、ガイド11人、2人組の剥製師、3人組の芸術家、医師2名、看護婦1名、写真家2名、速記者2名、牧師1名が乗っていた[ 3] 。
^ 日露和平交渉の斡旋をしたセオドア・ルーズベルト への反感から、アメリカへの敵がい心をもった者のしわざである可能性が考えられる[ 8] 。
^ 小村外相は帰国直後の3日間、各所をまわって、ハリマン提案には断固反対であると桂や元老たちを説得して歩いた[ 6] [ 11] [ 10] 。形式論からすれば、ポーツマス講和条約の規定によって南満洲鉄道の日本への譲渡は清国 の同意を前提とするものであり、その点からしても、桂・ハリマン協定は不適切であるということを強調した[ 12] 。小村の見解に桂らも納得し、10月23日 の閣議において破棄が決定した[ 10] 。
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