7世紀、アヴァールやスラヴ人によって都市は破壊された[4]。エピダウロスからの難民は現代のドゥブロヴニクに含まれるラウス(ラグーサ)に逃れている[5]。中世、ツァヴタット(Cavtat)またはラグーサ・ヴェッキーア(Ragusa-Vecchia)と呼ばれる町が同じ地域に建設された。アウグストゥス治世時の執政官P・コーネリウス・ドラベッラ(P. Cornelius Dolabella)の墓とイリュリクム
(Illyricum)の行政官のローマの碑文が遺跡の中から発見され、水路の跡なども残されている[6] 。イリュリア人たちはザプタル(Zaptal)と呼んでいた。エピダウロスはギリシャの世界遺産エピダウロスやラコニア県のエピダヴロス・リミラ州などにその名が見られる。
^Researches on the Danube and the Adriatic by Andrew Archibald Paton (1861). Contributions to the Modern History of Hungary and Transylvania, Dalmatia and Croatia, Servia and Bulgaria- page 247