オシップ・アロノヴィチ・ピアトニツキー Осип Аронович Пятницкий | |
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![]() 1926年より前 | |
生年月日 | 1882年1月29日 |
出生地 |
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没年月日 | 1938年7月29日(56歳没) |
死没地 |
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所属政党 |
ロシア社会民主労働党 →ロシア共産党(ボリシェヴィキ) →全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)(ソビエト連邦共産党) |
オシップ・アロノヴィチ・ピアトニツキー (ロシア語: Осип Аронович Пятницкий, ラテン文字転写: Osip Aronovich Pyatnitskii, 1882年1月29日 - 1938年7月29日)は、ロシア帝国の革命家、ソビエト連邦の政治家である。本名はイオシフ・アロノヴィチ・タルシスIosif Aronovich Tarshis)。ユダヤ系。
ロシア帝国コヴノ県(現在のリトアニア・ヴィリニュス郡)ウクメルゲ生まれ[1]。
1898年、ロシア社会民主労働党に入党[1]。1903年、ボリシェヴィキに参加[1]。1921年、コミンテルン執行委員会国際連絡部責任者となった[1]。ロシア共産党(ボリシェヴィキ)組織部書記、1924年-1927年党中央統制委員、1927年-1937年全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)(ソビエト連邦共産党)中央委員などを歴任[1]。
NKVDへの緊急権付与に反対した直後の1937年7月27日、反革命罪で逮捕された[1]。一年にもわたる拷問にもかかわらず、自白はしなかったと伝えられる。翌1938年7月28日に死刑を言い渡され、翌日にコムナルカ射撃場で銃殺刑に処せられた。妻も1940年に強制収容所で獄死している。
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