オーティス・スパン | |
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生誕 | |
死没 | |
ジャンル | シカゴ・ブルース[1] |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1944年 – 1970年 |
レーベル |
オーティス・スパン(Otis Spann、1924年もしくは1930年3月21日 – 1970年4月24日、米国ミシシッピ州) はアメリカのブルース・ミュージシャンであり、戦後のシカゴ・ブルースの主要ピアニストであるとされている[2][3]。マディー・ウォータズのバンドに参加していたことで有名である[3][4]。1980年にブルースの殿堂入りしている[2]。
スパンの初期の来歴については、資料によって異なった記載がなされている[2]。彼は1930年にミシシッピ州ジャクソンで生まれたという資料もあるが[4][5] 、研究者のボブ・イーグルとエリック・ルブランは、国勢調査の記録やその他の公式情報に基づいて、1924年にミシシッピ州ベルゾーナで生まれたと結論付けている[6]。
いくつかの情報源によると、スパンの父親はフライデー・フォード(英語: Friday Ford)と呼ばれるピアニストであった。彼の母親であるジョセフィン・アービー(英語: Josephine Erby)はメンフィス・ミニーやベッシー・スミスと共に活動したギタリストであり、彼の継父であるフランク・ヒューストン・スパン(英語: Frank Houston Spann)は説教者でありミュージシャンであった。 5人の子供のうちの1人であるスパンは7歳のときに、父や祖父、リトル・ブラザー・モンゴメリーからの指導を受けてピアノを弾き始めた [7]。
14歳までに、彼はジャクソン地域のバンドで演奏していた。彼は1946年にシカゴに移り、ビッグ・メイシオ・メリーウェザー指導を受けた。スパンはソロ活動として、ギタリストのモリス・ペホエ(英語: Morris Pejoe)と共演し、ティック・トック・ラウンジ(英語: Tic Toc Lounge)で定期的に演奏した[8]。 スパンはその独特のピアノ・スタイルで知られるようになった。彼は1952年後半にマディ・ウォーターズのピアノ奏者としてメリウェザーに代わり、1953年9月24日にバンドとの最初のレコーディング・セッションに参加した[9]。彼はバンドへの在籍中、 ボ・ディドリーやハウリン・ウルフなどの他のミュージシャンと共にソロ・アーティストおよびセッション・プレーヤーとしてレコーディングを続けた。彼は1968年までマディ・ウォーターズのもとに滞在した [10]。
チェス・レコードにおいてスパンが録音した作品には、B.B.キングとジョディ・ウィリアムズがギタリストとして参加している1954年のシングル「イット・マスト・ハヴ・ビーン・ア・デヴィル(英語: It Must Have Been the Devil) / ファイブ・スポット(英語: Five Spot)」が含まれてる。また、「ユー・キャント・キャッチ・ミー」のスタジオ版を含むチャック・ベリーの初期のレコードのいくつかに録音も残している。 1956年には、ビッグ・ウォルター・ホートンとロバート・ロックウッド・ジュニアと共に2つの未発表のトラックを録音 [11]。1960年8月23日にニューヨークで、ギタリストのロバート・ロックウッド・ジュニアとボーカリストのセントルイス・ジミーとともに録音したセッションは、同年のアルバム『オーティス・スパン・イズ・ザ・ブルース』および死後の『ウォーキング・ザ・ブルース』として発売された。ストーリーヴィル・レコードにおいては、1963年のコペンハーゲンのセッションが録音された。彼は1964年にマディ・ウォーターズとエリック・クラプトンと共にデッカで[12]、ジェイムズ・コットンと共にプレスティッジでレコーディングをおこなっている。
1966年にABCブルースウェイより発表されたアルバム『The Blues Is Where It's At』においては、ジョージ・ハーモニカ・スミス、マディ・ウォーターズ、サミー・ローホーンから曲の提供を受けている。また1967年の『ザ・ボトム・オブ・ザ・ブルース』では、妻ルシール・スパンをフィーチャーしている[13]。1960年代後半にはその他、バディ・ガイやビッグ・ママ・ソーントン、ピーター・グリーン、フリートウッド・マックのアルバムに参加している。1967年に著名なブルース・ギタリストサン・ルイスがプロデュースしたライブおよびスタジオでの演奏を収めた『Someday...』は2012年にシルク・シティ・レコーズ(英語: Silk City Records)から発売されている。
映像としては、ニューポート・ジャズ・フェスティバル(1960年)、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル(1963年)、ブルース・マスターズ(英語: the Blues Masters、1966年)、コペンハーゲン・ジャズ・フェスティバル(1968年)での演奏がDVDとして発売されている。
スパンは1970年にシカゴにおいて肝臓癌で亡くなった。彼はイリノイ州アルシップのバー・オーク墓地に埋葬された。彼の墓は、キラー・ブルース・ヘッドストーン・プロジェクト(英語: Killer Blues Headstone Project)の代表スティーブ・ソルター(英語: Steve Salter)が《ブルース・レビュー(英語: Blues Review)》誌に、「このピアノの偉人は、墓標のない墓に眠っています。この悲惨な状況をなんとかしましょう」との手紙を書くまで、ほぼ30年間墓標をもたなかった。その後世界中のブルース愛好家が、墓石を購入するために寄付を送り、1999年6月6日、墓標はプライベート・セレモニーで除幕された。墓石には「オーティスは私たちが今まで聞いた中で最も深いブルースを演奏しました。彼は私たちの心の中で永遠に演奏します」と刻まれている。
1972年、アナーバー・ブルース・アンド・ジャズ・フェスティバルの会場は「オーティス・スパン・メモリアル・フィールド(英語: Otis Spann Memorial Field)」と名付けられた[14]。「ヴィレッジ・ヴォイス」紙の評論家ロバート・クリストガウは同年、スパンを「最も偉大な現代のブルース・ピアニスト」と呼び[15]、1981年には『Christgau's Record Guide: Rock Albums of the Seventies』に掲載された、1950年代と1960年代の音楽の「ベーシック・レコード・ライブラリ」にスパンのコンピレーション・アルバム『ウォーキング・ザ・ブルース』(1972年、バーナビー)を選出した[16]。
2012年11月13日には、スパンはいとこでピアニストのリトル・ジョニー・ジョーンズと共に、ミシシッピ州ジャクソンのサウス・ローチ・ストリート(英語: South Roach Street)547番地にミシシッピ・ブルース・トレイルの記念碑として掲げられた[17]。