オーバーン (揚陸指揮艦)

オーバーン
USS Auburn
マニラ湾にて、1945年8月。
基本情報
建造所 ノースカロライナ造船社英語版
運用者  アメリカ海軍
艦種 揚陸指揮艦
艦歴
起工 1943年8月14日
進水 1943年10月19日
就役 1944年7月20日
退役 1947年5月7日
最期 スクラップ処分
除籍 1960年7月1日
要目
排水量 12,955トン
全長 459 ft 2 in (139.95 m)
最大幅 63 ft (19 m)
吃水 26 ft (7.9 m)
機関 ゼネラル・エレクトリック社製ギヤード・タービンエンジン ×1
推進 単軸推進
速力 16.4kt (30.4 km/h)
燃料 NSFO(海軍特殊燃料油)22,650バレル
ディーゼル用重油 700バレル
乗員 686名
兵装 38口径5インチ単装両用砲 ×2
連装40mm対空機関砲 ×4
20mm対空機関砲 ×14
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オーバーン (USS Auburn, AGC-10)は、アメリカ海軍揚陸指揮艦第二次世界大戦で活躍した。

艦歴

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就役

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1943年8月14日ノースカロライナ州ウィルミントンノースカロライナ造船社英語版にて、アメリカ海事委員会英語版の契約のもとでKathayという艦名で起工される。ジュリア・ランシー氏に命名されて同年10月19日に進水し、1944年1月31日に海軍に移管される。ニュージャージー州ホーボーケンベスレヘム造船にて揚陸指揮艦に改装され、オーバーン (USS Auburn, AGC-10)と改名された。7月20日、ホーボーケンにてラルフ・オーセン・メイアーズ大佐指揮下で就役した。

1944

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チェサピーク湾での慣熟訓練を完了した後、8月17日ヴァージニア州ノーフォーク海軍基地を離れて太平洋を目指した。23日にパナマ運河を抜け、9月6日真珠湾に到着した。その3日後、オーバーンは太平洋艦隊第2水陸両用群旗艦に指定される。29日にドック入りし、装備の追加や若干の補修を受けた。

1945

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11月中旬、オーバーンは火山列島侵攻に向けてマウイ島沖で一連の演習を実施する。1945年1月27日にハワイを去り、エニウェトク環礁サイパン島を経由して2月初旬にテニアン島に着く。同島では硫黄島侵攻の最終リハーサルを行う。19日、硫黄島に海兵隊員が上陸を開始。作戦中、第2水陸両用群に所属する数百隻の艦船の行動を調整、指揮した。3月27日まで沖合に留まり、その日に真珠湾に帰投。乗組員は休暇を与えられた。

5月15日にハワイを出撃して31日に沖縄に到着。第5水陸両用部隊旗艦となり、沖縄での死闘を指揮した。本艦も度々日本軍の航空攻撃を受けたが、幸運にも損傷を逃れることができた。6月22日頃に沖縄の日本軍を指揮する牛島満陸軍中将らが自決。本艦は7月1日に真珠湾への帰路についた。

オーバーンは大戦中の戦功により2個の従軍星章を授与された。

戦後

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真珠湾に到着するとすぐに乾ドック入りして補修を受けた。補修中に日本が降伏。8月15日から4日後にハワイを出てフィリピンへの航海を始める。約1ヶ月の停泊後、9月14日にマニラを出港。エニウェトク環礁、沖縄のバックナー・ベイに寄港してから9月20日長崎県佐世保に錨を下ろした。

3日後長崎へと出港。長崎では船舶・陸上間の通信の確立や、占領軍の設備の準備などに重要な役割を果たした。9月25日和歌山に到着し、大阪京都といった大都市の占領軍を支援した。10月上旬に横浜へと移動。12日に占領任務を終えて日本海域を離れ、帰国の途についた。

21日に真珠湾に到着して数日滞在。31日にサンフランシスコ湾に入ったが、11月5日に再びハワイへと針路を採る。14日にハワイに到着して軍人の乗客を乗せて出発。29日にパナマ運河を抜け、12月7日にノーフォークに入港して乗客を下ろした。

到着から3日後、大西洋艦隊訓練司令部旗艦に指定される。1947年1月まで旗艦を務め、その後大西洋予備艦隊に編入された。ノーフォーク海軍造船所で不活性化処分を受け、5月7日に退役。

1960年7月1日に海軍のリストから名前が削除され、同年11月に処分のために海事委員会に移管される。1961年に売却され、スクラップ処分となった。

受勲

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参考

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外部リンク

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