カジミェシュ・ルボミルスキ

オオライチョウ狩りに向かうカジミェシュ・ルボミルスキ、1907年

カジミェシュ・ルボミルスキKazimierz Lubomirski, 1869年7月16日 プシェヴォルスク - 1930年12月15日 クラクフ)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)およびポーランドの貴族、政治家、外交官。ルボミルスキ家の公(侯爵(Fürst)/公爵(książę))。

生涯

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イェジ・ヘンリク・ルボミルスキ公とその妻のツェツィリア・ザモイスカ伯爵夫人(1831年 - 1904年)の間の次男として生まれた[1]クラクフ政界では保守派に属し、1901年から1913年までガリツィア王国議会の議員を務め、ガリツィアにおける農業発展と鉄道建設に関わった。1913年より、民族主義派の国民民主党Narodowa Demokracja)に所属した。1918年に成立したポーランド共和国の市民となり、1919年から1921年まで、最初の駐米ポーランド公使としてワシントンに滞在した。帰国後、遠縁のステファン・ルボミルスキStefan Lubomirski)の後任として、1921年から1929年までポーランド・オリンピック委員会(PKOl)の会長を務めた。また地主組織の監督委員会の委員長も務めた。

1902年にテレサ・ヴォジツカ伯爵夫人(1883年 - 1948年)と結婚し、間に3男1女の4人の子女をもうけた[1]。長女のツェツィリア・ルボミルスカ(1907年 - 2001年)は、ブルボン家ガブリエル王子に嫁いだ。

参考文献

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脚注

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  1. ^ a b Minakowski, Marek Jerzy. “Kazimierz ks. Lubomirski z Lubomierza h. Drużyna (ID: 15.105.673)”. 29 March 2012閲覧。