カロル・ユゼフ・テオフィル・エストライヒャ (Karol Józef Teofil Estreicher, 1827年11月22日 - 1908年9月30日) は、ポーランドの書誌学者、図書館員で、ポーランド学術アカデミーの創設者である[1]。「ポーランド書誌学の父」としても知られ[2]、文学研究における書誌学的方法の確立者でもある[3]。彼の「記念碑的業績」[3]である『ポーランド書誌』は、「ポーランドの書籍の卓越した書誌であり、おそらく世界で最も有名な書誌のひとつである」[4][5]。
エストライヒャは、ヤギェウォ大学博物学教授アロイジ・ラファウ・エストライヒャの息子だった。大学で哲学と法学を修めた後、彼はクラクフとリヴィウの裁判所に務め、そこで書誌学に情熱を傾けるようになった[1]。1862年、辺境伯アレクサンデル・ヴィエロポルスキが彼を、ワルシャワ学校の次席司書と書誌学助教授に任命し、彼はそこで書誌学を初めて独立した学問として講義した[1]。1868年に彼はクラクフへ帰り、ヤギェウォ図書館の館長として37年間働き、図書館を近代化して蔵書を3倍にした[1][3]。
彼は作家、歴史家、文芸評論家、ジャーナリスト、そして演劇評論家としても活躍した[1]。
息子のスタニスワフ・エストライヒャは、ヤギェウォ大学法学教授、学長であり、孫のカロル・エストライヒャもヤギェウォ大学の美術史の教授であった[5]。