カール・デッカー | |
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生誕 | 1897年11月30日 ドイツ帝国・ボルンティン |
死没 | 1945年4月21日 (47歳没) ドイツ国・ブラウンシュヴァイク |
所属組織 | ドイツ帝国 ドイツ国 ドイツ国 |
部門 | ドイツ帝国陸軍 ヴァイマル共和国軍 ドイツ国防軍陸軍 |
軍歴 | 1914年 – 1945年 |
最終階級 | 装甲兵大将 |
指揮 | 第5装甲師団 第39装甲軍団 |
戦闘 | 第一次世界大戦
第二次世界大戦 |
受賞 | |
カール・デッカー(ドイツ語: Karl Decker、1897年11月30日 - 1945年4月21日)は、ドイツの軍人。最終階級は装甲兵大将。第二次世界大戦における戦功により柏葉・剣付騎士鉄十字章を受章している。
1897年11月30日、プロイセン王国・ポンメルン地域のボルンティンに将校の息子として生まれる。第一次世界大戦勃発直後の1914年8月3日にドイツ帝国陸軍へ入隊し、東プロイセンで初の戦場を経験した[1]。デッカーは敵前で示した勇敢さを評価されて士官候補生となり、同時に二級鉄十字章1914年章を受章した。1915年に少尉へ昇進し、その後一級鉄十字章1914年章も受章している。同年、彼はポーランド、ロシア、クールラント(現在のラトビア)で戦闘に加わり、1916年には機関銃部隊の小隊指揮官(ツークフューラー)を務めた。1917年春から西部戦線に移動した彼は、翌年リスの戦いに参戦した。その際、彼は大隊副官に就いている。なお、この戦闘で彼の師団は大規模な死傷者を出した。1918年中、彼はダルゴウ=デーベリッツの歩兵学校で武器の指導員を務めた[2]。
ドイツ帝国が崩壊すると、デッカーは1920年にヴァイマル共和国軍へ入隊し、第29「イェーガー」予備役連隊、第5「イェーガー」連隊、第6騎兵連隊などに所属した。この間彼は中尉、次いで騎兵大尉へ昇進している。少佐へ昇進すると、ホルスト・ニーマックとともに第5騎兵連隊の参謀となった。その後すぐにミュールハウゼンの第38装甲分遣隊へ割り当てられた。後に彼は分遣隊の司令官となる[2]。
この部隊は第2装甲師団麾下となり、ポーランド侵攻ではデッカーの指揮の下クラクフやヤブウォンカ峠での戦闘に赴いている。フランスの戦いでは、彼は第2装甲師団・第3装甲連隊の大隊で指揮を執り、マースやスダン、サン=カンタン、アブヴィルなどで戦った。
バルカン戦線 (第二次世界大戦)が始まると、デッカーの部隊はユーゴスラビアやギリシャ北部で展開しアテネを占領、コリントス運河を渡河した。バルバロッサ作戦発動前に彼は第3装甲連隊司令官に就任。さらに1942年春には第9軍参謀となった。1943年4月に第5装甲師団の司令官を拝命。1944年5月4日、柏葉付騎士鉄十字章を受章し、同時に中将へ昇進した。
デッカーは第3装甲軍の第39装甲軍団司令官となり、1945年1月1日に装甲兵大将へ昇進した。彼の部隊は西部戦線に再配備された後、ユルツェンやアルザスでアメリカ軍と戦火を交えた。4月21日にルール・ポケットでドイツ軍が敗北すると、彼は自決した。
軍職 | ||
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先代 エルンスト・フェリクス・フェッケンシュテット中将 |
第5装甲師団司令官 1943年9月7日 – 1944年10月16日 |
次代 ルドルフ・リッペルト少将 |
先代 ディートリヒ・フォン・ザウケン装甲兵大将 |
第39装甲軍団司令官 1944年10月15日 – 1945年4月21日 |
次代 カール・アルント中将 |