カール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲン (Carl Friedrich Rungenhagen[ 注 1] , 1778年 9月27日 - 1851年 12月21日 )は、ドイツ の作曲家 、音楽教師 。
墓石の刻印
墓の全体像
ルンゲンハーゲンは当初ダニエル・ホドヴィエツキ の下で絵画 を学んでいたが、これをやめて父の貿易会社に加わった。そこで彼は1796年 から父の死まで働き、その後は音楽に専念するようになった[ 1] 。
ルンゲンハーゲンは1801年 に合唱団ベルリン・ジングアカデミー に入団、カール・フリードリヒ・ツェルター の弟子となった。1815年 には指揮者 代理となり[ 2] [ 3] 、1833年 にはツェルターの跡を継いで団の運営を引き受けることになる。アカデミーの役員総会において、ルンゲンハーゲンが代表に選出された選挙については異論がなかったわけではない。対抗馬には同じくツェルターの教え子であったフェリックス・メンデルスゾーン がいたのである。メンデルスゾーンは1829年 に有名なバッハ の「マタイ受難曲 」の復活公演をアカデミーで成功に導いており[ 4] [ 5] 、またフェリックスを含むメンデルスゾーン一家の面々が長く合唱団で歌い、アカデミーを支えてきたという状況があった。しかし、これらの貢献ではアカデミーを率いるには十分とはいえないということになってしまった。ルンゲンハーゲンが成功したのは反ユダヤ主義 のためだと考える者もいる[ 6] 。その後メンデルスゾーンがベルリン へと引き返さなかったのは、落選の影響によるものとも考えうる。
アカデミーの指揮者に就任したルンゲンハーゲンは、引き続きバッハの音楽の再興に努めた。1833年 には、バッハの死後初めてとなる「ヨハネ受難曲 」の公演で指揮をしている[ 4] [ 5] 。また1835年 には、同じくバッハの「ミサ曲 ロ短調 」のほぼ全曲の演奏を行った[ 4] 。彼はヘンデル のオラトリオ にも注力し、1840年 には5回の公演を行っている。同時代の作曲家のオラトリオも取り上げており、弟子のカール・エッケルト の「ルース Ruth 」や自作の「ユディス Judith 」などを演目に取り入れた。彼がジングアカデミーを指揮して初演したオラトリオは30作品にのぼる[ 4] 。彼自身が作曲した楽曲は主として教会音楽 、オラトリオ、カンタータ 、歌曲 であった[ 7] 。
ルンゲンハーゲンはベルリン芸術アカデミー でも音楽教師として教鞭を執り、1843年 には教授に任用された[ 3] 。彼の門弟にはアルベルト・ロルツィング [ 8] 、ルイス・レヴァンドフスキ 、スタニスワフ・モニューシュコ 、カール・エッケルト[ 9] 、アウグスト・コンラーディ 、アレクサンダー・フェスカ などがいる[ 10] 。また、ルンゲンハーゲンはベルリンでフリーメイソン のロッジのメンバーにもなっていた。
ルンゲンハーゲンは1851年 12月にベルリンで73年の生涯を閉じ、遺体はドロテーエンシュタット墓地 (英語版 ) [ 注 2] に埋葬された[ 11] 。彼の次にアカデミーの指揮者を引き継いだのはエドゥアルト・グレル であった。
「Aus der Tiefe ruf' ich, Herr 」 ソプラノ、4声の合唱とオルガンまたはピアノのための
「ピアノ伴奏による4つの歌曲」 1816年
「ソプラノのための2つのピアノ伴奏歌曲」 ベルリン、Gröbenschütz und Seiler 1807年?
「3つの女声三重唱」 ベルリン、Stern 1842年頃
「„Schlusslied“ Jetzt schwingen wir den Hut 」(リート )
「Abends, wenn man aus dem Wirtshaus geht 」(リート)
「Jetzt schwingen wir den Hut 」(リート)
「目覚め Erwachen 」 Op. 7
フォス(Voß)の「An Selma 」とクロプシュトック の「Lyda 」の2つの詩 (データなし)
「Süße Ahndungsschauer gleiten 」(L. Tieckの詩)(データなし)
「Selmar und Selma 」(クロプシュトックの詩)(データなし)
「Friedens-Cantate 」 ベルリン、W. Dietericiより出版 1816年
「テ・デウム Te Deum 」 ベルリン W. Dietericiより出版 1816年
「Stabat mater dolorosa 」(ラテン語とドイツ語の歌詞付き) 2人のソプラノと1人のアルトソロのための Op.24、ベルリン、Trautwein 1826年
「エルサレムに入るキリスト Christi Einzug in Jerusalem 」 1834年
「セシリア Caecilia 」
注釈
出典
^ a b Eitner (1889)
^ Meyerbeer, Giacomo; Tellier, Robert Ignatius Le (1999). 1791-1839 . Fairleigh Dickinson Univ Press. p. 216. ISBN 978-0-8386-3789-0 . https://books.google.co.jp/books?id=K3V2vCxvYNkC&pg=PA216&redir_esc=y&hl=ja 3 February 2013 閲覧。
^ a b Metzner, Günter (1990). Heine in der Musik. 6. Komponisten N - R . Schneider. p. 448. ISBN 978-3-7952-0606-2 . https://books.google.co.jp/books?id=9ts7AQAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja 3 February 2013 閲覧。
^ a b c d “Rungenhagen, Karl Friedrich ” (German). berlinintensiv.de (14 April 2001). 7 February 2013 閲覧。
^ a b Mahlke, Sybill (14 April 2001). “Musik in Berlin: Schweigeminute” (German). Der Tagesspiegel. http://www.tagesspiegel.de/kultur/musik-in-berlin-schweigeminute/219554.html 7 February 2013 閲覧。
^ Mercer-Taylor (2000) 112-4
^ Mercer-Taylor, Peter (28 September 2000). The Life of Mendelssohn . Cambridge University Press. p. 110. ISBN 978-0-521-63972-9 . https://books.google.co.jp/books?id=vZG3pBbCaB4C&pg=PA110&redir_esc=y&hl=ja 3 February 2013 閲覧。
^ Schirmag, Heinz (1995). Albert Lortzing . Henschel. p. 15. ISBN 978-3-89487-196-3 . https://books.google.co.jp/books?id=50ZBAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 3 February 2013 閲覧。
^ Baumgartner, Alfred (1983). Musik der Romantik . Kiesel. p. 427. ISBN 978-3-7023-4004-9 . https://books.google.co.jp/books?id=fLg7AQAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja 3 February 2013 閲覧。
^ ニューグローヴ世界音楽大事典 における、これら音楽家の項を参照のこと。
^ Mende, Hans-Jürgen; Wernicke, Kurt; Chod, Kathrin (2001). Berlin Mitte: das Lexikon . Stapp. p. 552. ISBN 978-3-87776-111-3 . https://books.google.co.jp/books?id=LkxoAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja 3 February 2013 閲覧。
Eitner, Robert (1889), "Rungenhagen, Karl Friedrich", in Allgemeine Deutsche Biographie , vol.29. (In German). In German Wikisource at this URL. Accessed 3 Feb 2013.
Mercer-Taylor, Peter (2000). The Life of Mendelssohn . Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-63972-7 .
Sound carrier of - ドイツ国立図書館 の蔵書目録(ドイツ語 )より。