ガブリエル・ラレマン Gabriel Lalemant | |
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イエズス会師、カナダの宣教師、殉教者 | |
生誕 |
1610年10月3日 フランスパリ |
死没 |
1649年3月17日 (38歳没) セントイグナス(現在の カナダオンタリオ州テイ近郊のウォーボーシーン(Waubaushene)) |
崇敬する教派 | ローマカトリック教会 |
列聖日 | 1930年7月29日 |
列聖決定者 | ピウス11世 (ローマ教皇) |
主要聖地 | イエズス会殉教者教会( カナダオンタリオ州ミッドランド) |
記念日 |
9月26日(カナダ) 10月19日(アメリカ合衆国) |
ガブリエル・ラレマン(Gabriel Lalemant(LallemantまたはLalemant)、1610年10月3日 - 1649年3月17日)は、フランスのイエズス会宣教師。1646年よりヌーベル・フランス(新フランスの意味)での活動を行った。ワイアンドット族とイロコイ連邦諸国との戦争に巻き込まれ、セントイグナスでモホーク族の戦士に殺された。史上8人存在する、17世紀半ばにこのようにして殺されたイエズス会士「カナダの殉教者(Canadian Martyrs)」の1人である(「北アメリカ殉教者(North American Martyrs)」とも)。1930年に列聖された。
1610年10月3日、フランス人の弁護士とその妻の息子としてパリで生まれた[1]。6人兄弟の3番目で、うち5人が修道生活に入った。ガブリエルの叔父2人は、ヌーベル・フランスでイエズス会に入った。この兄弟の内、シャルル・ラレマン(Charles Lalemant)はカナダのイエズス会伝道部(the Jesuit missions in Canada)の初代代表、ジェローム・ラレマン(Jérôme Lalemant)はケベックの副総督(Vicar-General)であった[2]。
1630年にラレマンはイエズス会に加わり、1632年には海外宣教に専念することを誓った。のち1632年から1635年までムーランの大学(Collège in Moulins)で教鞭をとり、1639年までブールジュで神学を学び[1]、1638年に叙階された。その後、ラレマンは3つの学校で教え、ムーランでは哲学の教授を務めた。その間、ヌーベルフランスに行くことを何度も希望したが、健康状態が悪かったこともあり、上層部に断られた。最終的には、カナダのミッションの責任者である叔父のジェロームが介入した[3]。
1646年9月、ラレマンはケベックに赴き[4]、最初の数か月で、ヒューロンの言語と習慣を研究した。しかし健康状態が良くなったわけではなく、ヌーベルフランスの宣教師仲間であったフランソワ=ジョセフ・ブレサーニ(François-Joseph Bressani)は、非常に虚弱な体質の人と考えていたという。カナダでの最初の2年の間、ラレマンはケベックとトロワ・リビエール(Trois Rivières、英語の「Three Rivers」に相当)の貿易センター及びその周辺で宣教師としての活動を行った。 1648年9月になると、ジャン・ド・ブレビュー(Jean de Brébeuf)の助手としてワイアンドット族(ヒューロン)の支配するワンダケ(Wandake)という地に派遣され[5]、サント・マリーの伝道所(Sainte-Marie among the Hurons)に赴任した。 1649年2月、ラレマンはノエル・シャバネル(Noël Chabanel)に代わってセントルイスの任務につくこととなった。
1649年3月、大半のワイアンドット族の戦士たちが留守の間に、1,200人のイロコイ族がセント・イグナスの集落を襲撃した。数人の生存者は、セントルイスの村に警告するために脱出しました。同地に残っていた80人の戦士たちは攻撃を遅らせるために戦い、高齢者や女性、子供たちを逃がした。ラレマンとブレビューは戦士たちと一緒に残り、捕らえられて近くのセント・イグナスの伝道所に連れて行かれた[6]。拷問されたのち、ジャン・ブレビューは1649年3月16日に、ラレマンはその翌日に当たる1649年3月17日に死亡した[3]。
死後2日経った1649年3月19日にイロコイ族の戦闘部隊がこの地域から撤退した後、7人のフランス人がセント・イグナスに行き、二人のイエズス会士とワイアンドット族の遺体を回収した。彼らはサント・マリーに遺体を戻し、そこに埋葬したという。[4]現在は、オンタリオ州ミッドランドの殉教者教会(Martyrs' Shrine)に安置されている。第259代ローマ教皇ピウス11世は1930年6月29日にラレマンを列聖した[1]。