キューバン・アサシン | |
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1982年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
キューバン・アサシン キューバン・アサシン1号 オリジナル・キューバン・アサシン アンヘル・カストロ |
本名 | アンヘル・アセベド |
ニックネーム | キューバの暗殺者 |
身長 | 170cm[1] - 175cm[2] |
体重 | 100kg[2] - 110kg[1] |
誕生日 | 1945年1月27日(79歳)[1] |
出身地 |
プエルトリコ サンフアン[1] |
ザ・キューバン・アサシン(The Cuban Assassin、本名:Ángel Acevedo、1945年1月27日 - )は、プエルトリコ・サンフアン出身の元プロレスラー。
キューバのゲリラ兵ギミックのヒールとして[2]、カルガリー、モントリオール、マリタイムズなどカナダ各地を主戦場に活動[3]。日本にも、中堅外国人のポジションで国際プロレスに度々参戦した[2]。
1980年代後半に新日本プロレスに、1990年代前半にW★INGに来日していた同名のレスラー(フィデル・シェラ)は、このギミックの後継者であり[1]、オリジナル版の本項とは別人である[4]。
父親はキューバ人、母親はプエルトリコ人[1]。当初はボクサーを目指していたが、増加した体重を活かすためにプロレスに転向、移住先であるアメリカ合衆国のフロリダでトレーニングを積み、エディ・グラハム主宰のNWAフロリダ地区にてデビュー[1]。キューバ系の出自をもとに、軍服をコスチュームとしたゲリラ兵ギミックのキューバン・アサシン(The Cuban Assassin)を名乗り、モジャモジャ頭に髭面の悪相ヒールとなって活動する。1972年にはウェストバージニア州ブルーフィールドにてヘビー級王座を2回獲得した[5]。
1973年、キューバン・アサシン2号(フランク・シーブランシン)とのタッグチーム、キューバン・アサシンズ(The Cuban Assassins)[6]を結成してテネシーのミッドアメリカ地区に登場。ジャッキー・ファーゴ、ジェリー・ジャレット、トージョー・ヤマモトらのチームと対戦した[7]。その後はカナダのモントリオールに進出し、1974年11月、同地区との提携ルートで2号と共に国際プロレスに初来日[8]。シリーズのパンフレットには「キューバ革命前の旧政府直轄の殺し屋で、革命後もフィデル・カストロを暗殺すべくジャングルでゲリラ活動をしていたが、カストロ政権の軍隊に捕まりキューバを追放された」などと紹介されていた[9] 。
以降もキューバン・アサシンズでの活動を続け、1976年12月3日にはアルバータ州カルガリーのスタンピード・レスリングにて、エディ・モロー&ジェリー・モローの兄弟チームからインターナショナル・タッグ王座を奪取[10]。1977年2月には国際プロレスの『第6回IWAワールド・シリーズ』に再来日、シングルの総当たりリーグ戦ではマッドドッグ・バションやジプシー・ジョーとも対戦し、同時開催されたIWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにも2号と組んで出場したが、1回戦でアニマル浜口&寺西勇に敗退した[11]。
2号とのコンビ解散後はシングル・プレイヤーに戻り、カルガリーやマリタイム地区のAGPWで活動。国際プロレスにも、最後の参戦となった1980年4月にかけて再三来日。キラー・ブルックス、アレックス・スミルノフ、モンゴリアン・ストンパーら外国人エースの先兵役となって日本陣営を引っ掻き回した(国際プロレスにはキューバン・アサシンズでの参戦を含め通算6回来日)[12]。1977年11月の来日時には、巨漢ブルドーザー・ビッグ・ベンのマネージャー役も務めている[13]。
AGPWでは1980年にボビー・バスと組んで、レオ・バーク&ヒューバート・ギャラントを破り北米タッグ王座を獲得[14]。1981年はテネシー州メンフィスのCWAに登場、ジミー・ハート率いるヒール軍団「ファースト・ファミリー」に加入して、イラニアン・アサシン(ジャック・クルーガー)をパートナーにリッキー&ロバートのギブソン・ブラザーズと抗争を展開[15]。ジェリー・ローラーとも対戦し、ビル・ダンディー&スティーブ・カーンが保持していたAWA南部タッグ王座にも挑戦した[16]。1982年は故郷プエルトリコのWWCに参戦、後に正式なタッグチームを結成する旧敵ジェリー・モローと組み、11月20日にピエール・マーテル&ジノ・ダラセーラ(ボブ・ダラセーラの実弟)からWWC世界タッグ王座を奪取している[17]。
主戦場のカルガリーでは1983年から1984年にかけて、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ブレット・ハート、デビッド・シュルツらと対戦[18]。9月9日にはフランシスコ・フローレスをパートナーに、ミスター・ヒト&ジム・ナイドハートを破ってインターナショナル・タッグ王座に返り咲いている[10]。サニー・トゥー・リバーズや高野俊二など、海外修行でカルガリーに渡っていた新日本プロレスの若手選手とも対戦し、ヒール陣営にいたヒロ斎藤やザ・コブラともタッグを組んだ[19]。バッドニュース・アレンとのコンビでも、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスを相手にインターナショナル・タッグ王座を争っている[10]。
1984年10月、当時AGPWとの選手招聘ルートを持っていた第1次UWFに来日。シューティング路線への移行期にあった旧UWFにおいて、前田日明、藤原喜明、スーパー・タイガーらと対戦した[20]。翌1985年は太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングに出場、トム・プリチャード、ボビー・ジャガーズ、ビリー・ジャック・ヘインズなどと対戦している[21]。その後、1987年からはアメリカ中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦、1988年2月6日、ボブ・ブラウンと組んでセントラル・ステーツ・タッグ王座を獲得した[22]。
1980年代末はジェリー・モローとの傭兵ギミックのタッグチーム、キューバン・コマンドス(The Cuban Commandos)で活動。スタンピード・レスリングではブライアン・ピルマンやクリス・ベノワらのチームを破ってインターナショナル・タッグ王座を2回獲得[10]、WWFを離脱してカルガリーに戻ってきたブリティッシュ・ブルドッグスとも抗争した[23][24]。プエルトリコのWWCにもロス・メルセナリオス(Los Mercenarios)のチーム名で再登場し、1989年10月7日にミゲル・ペレス・ジュニア&ウラカン・カスティーヨ・ジュニアからカリビアン・タッグ王座を奪取[25]。モローの離脱後はロン・スターを新パートナーに、1990年2月4日にマーク・ヤングブラッド&クリス・ヤングブラッドを下してWWC世界タッグ王座を再び獲得した[17]。
以降、1992年にセミリタイアするも、2004年までアルバータ州のインディー団体に出場していた[26]。息子のリッチー・アセベド(Richard "Richie" Acevedo)もプロレスラーであり、キューバン・アサシンのリングネームとギミックを受け継いで2000年代に活動していた[27]。