クン・サ (中国語: 昆沙、「クンサー」とも。中国名:張奇夫, 1934年2月17日 - 2007年10月26日)は、タイ・ミャンマー国境の少数民族シャン族解放組織モン・タイ軍の指導者であり、黄金の三角地帯を作り上げた麻薬王である。
中国の国共内戦で敗北を重ねた国民党軍は、すべてが1949年までに蔣介石総統と共に台湾に逃れたわけではなく、広東省からイギリスの植民地の香港に逃れた部隊や雲南省からタイ北部、ミャンマー北部のカチン州・シャン州に逃れた部隊が存在した。
このうちタイ北部に逃れた部隊のひとつ、国民党軍第27集団軍隷下の「第93軍」は、共産主義化した中国からの国土奪還のための資金集めとして、民族、国境紛争の絶えなかったタイ北部に定住、少数民族解放運動を建前に武装を続け、アヘン栽培で資金集めをしていた(そのために「アヘン・アーミー」「ドラッグ・アーミー」とも呼ばれた)。その第93軍兵士とシャン族女性の間に生まれたのがクン・サである。 幼くして両親を失ったクン・サは成長後にシャン州の国民党軍に入隊した。18歳の時に反乱事件を起こすが失敗し、山野を放浪する生活を数年送る[1]。
1953年にシャン州の国民党軍が少数の残党を残して台湾に撤収した。その後、ビルマ政府はシャン州の各民族に自衛組織を作らせてシャン州を間接統治したが、このときクン・サも政府公認の軍閥を作り、アヘン利権をめぐる闘争に参加した。クン・サの軍閥はビルマ政府と手を組んで中国政府の支援を受けたビルマ共産党と争いつつ勢力を拡大したが、その膨張が危険視されていた。1967年には、クン・サ率いる麻薬の輸送団が旧ラオス王国に侵入した際に旧ラオス王国軍と戦闘が発生(1967年阿片戦争)。この事によって1969年にクン・サは逮捕される[1]。しかし、残されたクン・サの軍閥は1971年にソ連人医師を人質に取り、政府に対してクン・サの釈放を要求する事件を起こす。クン・サはタイ政府の仲介で1973年に釈放され、タイ北部に拠点を移した。
1985年、クン・サはタイ国境に近いビルマ領内のホモンに拠点を移した。 アメリカ合衆国(CIA)の支援のもとシャン族・モン族の独立運動を大義名分とする兵力25,000人[1]を擁するモン・タイ軍(MTA)を結成した。 モン・タイ軍とビルマ軍は永く対立していたが、実際の戦闘はほとんど生じず、モン・タイ軍は、むしろ同じく反政府勢力であるビルマ共産党と激しく軍事衝突した。 クン・サは1980年代後半に麻薬ビジネスを大々的に展開し、黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)と呼ばれる世界最大の麻薬密造地帯を形成した。 しかし、1990年代に入るとアジアにおけるアヘン生産の最大拠点はアフガニスタンへと移ってしまう。
1990年の軍事クーデターと、その後の民主化運動弾圧に対する国際的な批判をかわすために、ミャンマー政府は麻薬の取締に注力するようになった[1]。 また、アメリカも麻薬ビジネスの取り締まりに力を入れるようになり、クン・サにはアメリカ政府から200万ドルの懸賞金がかけられ国際手配される。クン・サはタイ北部から国境未確定地帯のミャンマー奥地に逃げ込み、1993年にシャン族独立を掲げて「シャン邦共和国」の独立を宣言し、自らを大統領に任じた。クン・サは麻薬王から少数部族のリーダーに代わろうとしたが、肝心のシャン族の離反が相次ぎ、1995年にはモン・タイ軍内部で反乱が発生した。
1996年1月、クン・サはモン・タイ軍の解散を宣言し、ミャンマー政府との間で突然停戦合意をして投降した。投降後はミャンマー政府の庇護に置かれ、首都ヤンゴンで生活。麻薬で得た資金を合法ビジネスに転用して、ミャンマー・タイにまたがる財閥を作り上げた。アメリカ政府はクン・サの身柄の引き渡しをミャンマー政府に要求したものの、同政府はこれに応じなかった。
なお、クン・サの転向と第93軍指揮官である段希文が死去したこともあり、第93軍の元兵士および家族は、クン・サのミャンマー政府投降以前の1987年に武装放棄、タイ国籍を取得している。2007年10月26日に、ミャンマーのヤンゴンにて死去。