グラハム・ヘンリー(Sir Graham William Henry, KNZM, 1946年6月8日 - )は、ニュージーランド出身のラグビー指導者。2004年から2011年までラグビーニュージーランド代表(オールブラックス)ヘッドコーチ。名前の発音は「グラハム」より「グレァム」に近い。
クライストチャーチ生まれ。クライストチャーチの名門クライストチャーチ・ボーイズハイスクール(CBHS)卒業。1969年オタゴ大学教育学ディプロマコース修了。オークランド・グラマー・スクール、ケルストン・ボーイズ・ハイスクールに勤務。教員として地理と体育を教え、ラグビーとクリケットを指導する。1979年マッセー大学教育学部卒業。ケルストン・ボーイズ・ハイスクール副校長、1987年から1996年まで同校の校長を務める。1996年にプロラグビーコーチへ転身するため教員生活から引退する。
1992年から1997年まで、オークランド州ラグビー代表ヘッドコーチを務めニュージーランド州代表選手権(NPC)では1993年から1996年の4年連続優勝。スーパー12(現在のスーパー14)ブルースヘッドコーチを兼任し1996年、1997年優勝、1998年準優勝の成績を残す。
1998年8月、ラグビーウェールズ代表ヘッドコーチに就任。当時、ウェールズラグビー史上最高年俸でのヘッドコーチ就任は大きな話題となる。就任後は低迷していたウェールズ代表の立て直しに成功しブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズヘッドコーチを兼任。同チーム初となる外国人ヘッドコーチに就任しチームを指揮する。2002年、ウェールズ対アイルランド戦で大敗しウェールズ代表ヘッドコーチを辞任。通算成績は36戦22勝1分13敗。
ニュージーランドへ帰国後、オークランド州代表コーチ(2002年 - 2003年)、2003年にブルースコーチに就任(このときの役職は技術アドバーザー)。ジョン・ミッチェルオールブラックスヘッドコーチのアシスタントに就任(フォワード担当)。ラグビーワールドカップ2003でのオールブラックス準決勝敗退を受けミッチェルは辞任。ミッチェルの後任としてオールブラックスヘッドコーチに昇格。
2004年にW杯勝利国イングランドと対戦し2勝するもトライネイションズでは4戦2勝2敗の成績で3位(最下位)に終わる。
トライネイションズ4戦3勝1敗で優勝。2005年度IRB年間最優秀監督賞を受賞。
トライネイションズ6戦5勝1敗で優勝。ヨーロッパ遠征(北半球遠征)4戦全勝。テストマッチ13戦12勝1敗の成績で終える。2006年度IRB年間最優秀監督賞、IRB年間最優秀チーム(ニュージーランド代表)、キャプテンを務めたリッチー・マコウがIRB年間最優秀選手に選出され最高のシーズンを終える。
ラグビーW杯を迎えたこのシーズンも順調な戦歴を重ねテストマッチ3戦3勝、トライネイションズ4戦3勝1敗で優勝。ニュージーランド代表はラグビーワールドカップ2007優勝国本命といわれ、予選プール4戦全勝で1位通過。しかし、決勝トーナメント準々決勝対フランスに敗れ敗退。この結果を受け、ニュージーランドラグビー協会(NZRU)はヘンリーの後任人事に着手すると発表。NZRUはヘンリーを含む4人の次期監督候補と面談し同年12月6日ヘンリーの留任を決定。2009年シーズン終了までの契約延長に合意した。2004年 - 2007年シーズンまでの通算成績48戦42勝6敗。この留任人事については莫大な遠征費やワールドカップでの惨敗など賛否両論の議論は絶えない。
トライネイションズ6戦4勝2敗で優勝、ブレディスローカップ4戦3勝1敗で優勝。ミッドイヤー・ラグビーテストマッチシリーズ(北半球遠征)ではスコットランド、アイルランド、ムンスター、ウェールズ、イングランドと対戦しグランドスラム(全勝)達成。IRB年間最優秀監督賞受賞。
トライネイションズ6戦3勝3敗(対南アフリカ戦全敗)で2位(1位は南アフリカ)、ブレディスローカップ4戦4勝で優勝。対フランス戦3戦2勝1敗、対イタリア戦2戦2勝、対イングランド戦1戦1勝、対ウェールズ戦1戦1勝、対バーバリアンズ戦1戦1敗。同年7月、NZRUと2011年ワールドカップ終了までの契約延長に合意。
2011年ワールドカップを翌年に控えたこの年、前哨戦にあたるスタインラガーシリーズ3戦3勝(対アイルランド1勝、対ウェールズ2勝)、トライネイションズ6戦6勝1位(優勝)、ブレディスローカップ4戦3勝1敗、英国遠征(イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ遠征)ではオールブラックス史上3度目、ヘンリー自身2度目のグランドスラム(全勝)を達成。IRB年間最優秀監督賞、IRB年間最優秀チーム賞を受賞しシーズンを終える。
シーズン開幕戦となるフィジー・テストでフィジーに勝利。トライネイションズ4戦2勝2敗で2位、2011年ワールドカップは予選プールから決勝戦まで全勝で終え24年ぶりにエリス杯を獲得。IRB年間最優秀監督賞(5度目)、IRB年間最優秀チーム賞(ラグビーニュージーランド代表)を受賞。同年11月1日、NZRUとの契約更新を待たず、オールブラックスヘッドコーチ職からの勇退を発表。2004年シーズンから2011年シーズンまでの通算成績は103戦88勝15敗、勝率85.4%。同年11月26日開催のラグビーオーストラリア代表対バーバリアンズヘッドコーチに指名され、トゥイッケナム・スタジアムで指揮を執るも11対60で敗戦。
オールブラックスヘッドコーチ勇退後はラグビーイングランド代表ヘッドコーチ就任が噂されたが、2012年2月、ニュージーランドラグビー協会(NZRU)との間でラグビー指導者へコーチング指導を担当するメンター契約を帰結。NZRUとの契約期間は2013年末までの非常勤契約。2013年4月にラグビーアルゼンチン代表アドバイザーに就任し実質的なアシスタントコーチを務めた(契約は2014年3月まで)。2014年シーズンから古巣ブルースのテクニカルアドバイザーに就任。
自ら“ラグビー選手としては平均的”という選手生活を送り、ラグビーニュージーランド代表(オールブラックス)に選出されたことはない。過去に幾度となくオールブラックスヘッドコーチ就任の噂が立ち、ヘッドコーチ候補にも上がったが落選し続けた[1]。オールブラックス選出経験がなく、オールブラックスヘッドコーチを務めたのは、ジョン・ハートに続き2人目。
カンタベリー州(1965年 - 1966年)とオタゴ州(1967年 - 1968年)選出のクリケット選手として活躍した期間がある。
ローウィン夫人との間に2男1女。妻のローウィンは元ネットボール選手で現在は指導者。1999年11月にネットボールウェールズ代表チームのコーチに就任。競技種目は異なるも夫婦でウェールズ代表チームを指導した。2002年8月までウェールズ代表でコーチを務めた。
教員生活は25年に及び、マッセー大学のインタビューに対し「教員として学生を指導をすること、人材育成に関われることはオールブラックスコーチを務めるより大切なこと」「学問とスポーツをバランスよくこなす事がスポーツ選手として、人間として成長するために必要」と答えている[2]。
2011年12月、ラグビー界への貢献により、エリザベス2世からニュージーランド・メリット勲章ナイトの勲位を授与され、サー(Sir)の称号を得る。
日本の早稲田大学ラグビー蹴球部臨時コーチとして1989年と2002年に来日指導をしている。早稲田大学ラグビー蹴球部の印象について、「早稲田の選手たちは非常に優秀。知的で練習熱心。教えていて楽しい。」とのコメントを残している。1989年当時、早稲田大学の選手だった清宮克幸も指導を受けた。