Graham MARSH | |
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基本情報 | |
名前 | グラハム・マーシュ |
生年月日 | 1944年1月14日(81歳) |
国籍 |
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出身地 | オーストラリア・パース |
経歴 | |
成績 | |
優勝回数 |
日本男子:20勝 米国男子:1勝 |
初優勝 |
日本男子:ダンロップトーナメント(1972) 米国男子:ヘリテージ・クラシック(1977) |
グラハム・マーシュ(Graham Marsh, 1944年1月14日 - )は、オーストラリア・パース出身のプロゴルファー。
1974年に日本のツアートーナメントで初めて3週連続優勝を達成した[1]。
アメリカPGAツアーでは1977年ヘリテージ・クラシック、ヨーロピアンツアーでは1970年スイスオープンなど13勝、世界4大ツアーも制して通算60勝以上を記録[1]。
世界を股にかけて活躍したことから「渡り鳥」の愛称で親しまれた[2]。
西オーストラリア大学とクレアモント教員養成大学に通い[3]、郷里の豪州パースで勤めていた高校の数学教師を退職してゴルフに転身[1]。
1968年5月の南オーストラリアンオープンでデビューし、単独3位に終わったが、ピーター・トムソンはジ・エイジ紙でこの大会について記事を書き、マーシュについて「この才能ある選手はすぐにもっと上位に食い込むだろう」と述べた[4]。
1970年にはニュージーランドのカルテックストーナメントでパー5の18番ホールに入ると、モーリス・ベンブリッジ(イングランド)、地元のテリー・ケンドールと並び首位タイとなるが、パーしか取れず、1打差の287で単独3位となった[5]。
1970年代から1980年代にかけてはヨーロピアンツアー、日本ツアー、オーストラリアPGAツアーで常連の優勝者となり、1972年と1973年にはアジアサーキットの総合タイトルを獲得[6] [7]。
1973年のフジサンケイクラシックでは最終日にアウトで38と崩れた若い中村通を33をマークしてあっさり逆転し、後半はやや伸び悩んだものの、1打差で中村を振り切り第1回のチャンピオンとなる[8]。1974年の第2回は首位から3打差までに中村、尾崎将司と共に着けると、8番に続き11番と2つのロングでイーグルを連発して一気にリードし、尾崎はインで崩れたことでそのまま逃げ切った[8]。
1974年のペプシトーナメントでは最終日、謝永郁(中華民国)と通算4アンダーで並びプレーオフに持ち込み、4ホール目でバーディを奪って競り勝ち、3週連続優勝を達成[9]。1981年の同大会では最終日に7バーディ・1ボギーの66で大逆転し、追い上げる羽川豊を振り切って通算18アンダーで優勝[9]。
1975年には札幌国際カントリークラブ島松コースで初めて開催された札幌とうきゅうオープンを制し、1989年には同大会2勝目を挙げる[10]。
1975年にはウィザードトーナメントを通算3アンダーで優勝し[11]、1976年には通算4アンダーで大会2連覇を達成[12]。
1976年のKBCオーガスタでは初日が豪雨で中止となり、大会初の54ホール・ストロークプレーで行われたが、安田春雄とのプレーオフ16番でバーディーパットを決めて優勝[13]。
1977年の中日クラウンズでは4打差8位タイからスタートした最終日に一気に追い上げ、一時はマーシュ、謝永、尾崎、森憲二が、通算2オーバーで横一線に並び混戦模様となる[14]。尾崎は13、14番で連続ボギーの後、15番では、林を渡り歩いて大崩れ[14]。謝永は、13、15、16番とパットが不調で失速。森も後退していったが、マーシュは11番のバーディで単独首位に立つと、15番でも1メートルのバーディパットを沈め、3打リードして17番を迎えた[14]。4年前に優勝争いの中、17番でトリプルボギーを叩き脱落したが、今度は見事にバーディを奪い“魔の17番”を克服[14]。通算イーブンパーながら、8度目の挑戦で初の栄冠を手にした[14]。
1981年の中日クラウンズでは3日目に65とチャージして23位タイから一気にトップと1打差の3位に浮上し、最終日には各選手が伸び悩む中、3日目までトップを死守してきたD.A.ワイブリング(アメリカ)と優勝争いを繰り広げた[15]。マーシュは11番5m、13番6mと難しいバーディパットを決めてワイブリングを捕えると、追いつかれたワイブリングは14番で8mのバーディパットを沈めたが、15番で手痛いボギー[15]。マーシュは17番で14mの長いバーディパットを沈めて勝負を決め、第18回に続き2度目の栄冠となった[15]。
1979年の全日空札幌オープンでは3日目に14番で10mの難しいバーディパットを決め、通算4アンダーで2位に着けた[16]。最終日には堅実なゴルフでイーブンパーにまとめ、通算4アンダーで[17]大会初優勝、杉原輝雄の3連覇を阻止すると同時に日本では2年4ヶ月ぶり、通算7勝目を挙げた[2]。
1985年の東海クラシックでは3日目に通算7アンダーで首位の尾崎直道に並び[18]、72ホール目、最終日18番ホールまで青木功と競り合い、グリーン上の戦いとなり、共に2オン。マーシュがパー、青木が痛恨の3パットを喫し、マーシュが5度目の出場で初優勝[19]。1990年の同大会では3日目に8バーディ・ノーボギーのベストスコア64をマークし単独トップに立ち、最終日、台風20号の接近で中止となり54ホールに短縮、前日までの成績で順位が決まり、5年ぶり2度目の優勝を飾った[20]。
1986年のサントリーオープンでは3日目に18番でバーディーパットを決めるなど通算8アンダーで首位に並び[21]、3週連続優勝を狙った青木[22]をプレーオフで破り、日本で1年ぶりの優勝を果たした[23]。
マーシュはヨーロピアンツアーで傑出した勝率を示し、シーズン中に欧州で7イベント以上プレーしたことがなかったにもかかわらず、11のタイトルを獲得。1977年にはイギリスで開催された世界マッチプレー選手権でも優勝するなど、通常のキャリアで合計56勝し、同時代で最も成功したプレーヤーの1人になった。
1994年にはシニア入りを待ちかねるように50歳になるとすぐアメリカシニアツアーに参戦し、9シーズンで6勝を挙げ、通算獲得賞金はレギュラー時代に日本ツアーで獲得した5億5000万円を超える678万ドル(8億5000万円)を獲得[24]。2002年はトップ10入りが1回だけ、賞金ランクもこれまでで最も悪い46位[24]に終わった。
1998年には青木の5連覇なるかで話題となった日本シニアオープンで初日から首位に立ち、通算14アンダーで同大会の初優勝を飾った[9]。
2004年には4つの主要なゴルフツアー(PGAツアー、ヨーロピアンツアー、チャンピオンズツアー、またはヨーロピアンシニアツアー)において、トーナメントで同じホールで2回エースを達成した最初の選手となった[25]。