ケビン・サリバン | |
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2012年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
ケビン・サリバン ザ・タスクマスター ザ・ボストン・バトラー ジョニー・ウエスト |
本名 | ケビン・フランシス・サリバン |
ニックネーム |
妖怪児 ザ・プリンス・オブ・ダークネス |
身長 | 178cm - 180cm |
体重 | 109kg - 114kg |
誕生日 | 1949年10月26日 |
死亡日 | 2024年8月9日(74歳没)[1] |
出身地 |
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州 サフォーク郡ボストン |
スポーツ歴 | レスリング |
トレーナー | Ron "Golden Gladiator" Hill |
デビュー | 1970年 |
ケビン・サリバン(Kevin Francis Sullivan、1949年10月26日 - 2024年8月9日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。マサチューセッツ州ボストン出身。
1970年代にベビーフェイスのポジションで活動後、1980年代より怪奇派のヒールに転向[2]。ザ・タスクマスター(The Taskmaster)を名乗ってヒール軍団の首領を務め、マネージャーやブッカーとしても活躍した[3]。日本では「妖怪児」の異名で呼ばれた[2]。
1970年10月、ジョージア州アトランタでのスカンドル・アクバとのスタジオTVマッチにてデビュー[3]。同地区でジョバーを務めた後、1971年よりジョニー・ウエスト(Johnny West)のリングネームでメキシコ湾岸のNWAガルフ・コースト地区に入り、ケン・ルーカスとのコンビで活動。3月11日にエディ・サリバン&ダンディ・ジャック・モレルからガルフ・コースト・タッグ王座を、6月2日には松岡巌鉄&大熊元司のライジング・サンズからUSタッグ王座をそれぞれ奪取した[4][5]。
その後、リングネームを本名のケビン・サリバン(Kevin Sullivan)に戻し、1972年よりテネシーのNWAミッドアメリカ地区に進出、3月24日にはロバート・フラーと組んで同地区版のNWA世界タッグ王座を獲得している[6]。1973年からは、長年の主戦場となるフロリダのCWFに参戦、主宰者エディ・グラハムの息子マイク・グラハムのパートナーに起用され、ボビー・シェーン&ゴージャス・ジョージ・ジュニアなどのチームを破りNWAフロリダ・タッグ王座を2回獲得した[7]。翌1974年5月、全日本プロレスに初来日[2]。前年にデビューしたジャンボ鶴田とのシングルマッチも組まれ[8]、当時の日本では「南部の若獅子」なるニックネームが付けられた。
1975年10月よりWWWFに登場[9]。イワン・プトスキーとのタッグチームなどで活動し、1976年には、WWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの挑戦者としてWWWFに参戦していたスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのコンビとも対戦、ジ・エクスキューショナーズ(キラー・コワルスキー&ビッグ・ジョン・スタッド)が保持していたWWWF世界タッグ王座にも挑戦した[10]。同年6月25日にニューヨークのシェイ・スタジアムで行われた『ショーダウン・アット・シェイ』では、同じベビーフェイス陣営のホセ・ゴンザレスと対戦して引き分けている[11]。WWWFには1977年まで出場して、アーニー・ラッド、スーパースター・ビリー・グラハム、バロン・シクルナ、バグジー・マグロー、クラッシャー・ブラックウェル、スパイロス・アリオン、トーア・カマタ、ニコライ・ボルコフ、ケン・パテラとも対戦した[12]。
その後、1977年5月の全日本プロレス再来日を経て、1978年は中西部のNWAセントラル・ステーツ地区で活動。ケン・ルーカスと再びコンビを組み、4月24日にアレックス・スミルノフ&ブルドッグ・ボブ・ブラウンからセントラル・ステーツ版のNWA世界タッグ王座を奪取[13]。南部ではガルフ・コースト地区を吸収したロン・フラー主宰のサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングにおいて、1978年12月1日にルーカスとのコンビでデニス・コンドリー&フィル・ヒッカーソンからNWAサウスイースタン・タッグ王座を奪取[14]。1979年にはトニー・チャールズとUSジュニアヘビー級王座を争った[15]。
1980年はジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングを主戦場に、4月21日にトニー・アトラスと組んでスミルノフ&イワン・コロフからNWAジョージア・タッグ王座を奪取[16]。シングルでも、6月8日にトーナメントの決勝でエディ・マンスフィールドを破り、空位となっていたNWAジョージア・ジュニアヘビー級王座を獲得、以降もスタンリー・レーンやダッチ・マンテルを相手に同王座を争い[17]、レス・ソントンが保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座にも挑戦した[18]。
デビュー以来一貫してベビーフェイスだったが、1980年末よりジョージア地区にてヒールのポジションに回るようになり、同年11月29日にはスティーブ・カーン、翌1981年2月21日にはスティーブ・オルソノスキーと、フェイス陣営の選手からNWAナショナルTV王座を奪取[19]。カーンとは "Boston Street Fight" なるハードコア・レスリング形式のデスマッチも行った[18]。同年4月からはメンフィスのCWAにもヒールとして参戦、ジミー・ハートのファースト・ファミリーに加入し、ウェイン・ファリスと組んでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーとAWA南部タッグ王座を争った[20][21]。
1982年8月、古巣であるフロリダのCWFに復帰。当初は従前と同様にベビーフェイスとしてケンドー・ナガサキなどと対戦していたが、10月より本格的にヒールに転向。ジェイク・ロバーツ、ジム・ガービン、ビッグ・ジョン・スタッド、デレク・ドレイパーらと結託して、ダスティ・ローデスとも抗争を開始[22]。11月22日にはバリー・ウインダムを破り、NWA南部ヘビー級王座を獲得した[23]。以降もCWFに定着して、1983年からはペイントレスラーに変身。パープル・ヘイズ、マハ・シン、ルナ・バション&ウィノナ・リトルハートのドーターズ・オブ・ダークネス、そして妻となるフォーリン・エンジェルとの怪奇派ユニット、アーミー・オブ・ダークネス(The Army of Darkness)のリーダーとなって[24]、ローデスやブラックジャック・マリガンと抗争を展開した[25]。
CWFを主戦場としつつ他地区にも出場し、サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングでは1984年12月9日にキラー・ブルックスを下してSCWヘビー級王座を獲得[26]。アラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングでは、1986年9月22日にブラッド・アームストロング、同年12月15日にザ・バレットからNWAコンチネンタル・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した[27]。
本拠地のCWFでは1987年1月16日にレックス・ルガー、2月18日にバッドニュース・アレンを破ってNWA南部ヘビー級王座に返り咲いたが、同月にジム・クロケット・プロモーションズがCWFを吸収合併したことによりタイトルは封印され、50年以上の歴史を持つ同王座の最後のチャンピオンとなった[23]。以降、ジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWに主戦場を移して、バーシティ・クラブのプレイング・マネージャーとなって活動。1988年から1989年にかけて、ロード・ウォリアーズやスタイナー・ブラザーズと抗争を繰り広げた[3]。MACWがテッド・ターナーに買収され、新団体のWCWが発足してからも継続参戦していたが、副社長ジム・ハードへの不満などもあり、契約満了の1991年下期にWCWを離脱[28]。
1992年1月、FMWに来日。ザ・シークの参謀役となって、14年ぶりの日本マット登場を果たした[29]。その後はW★INGプロモーションにも度々来日し、レザーフェイス、フレディ・クルーガー、クリプト・キーパー(ホセ・エストラーダ・ジュニア)ら怪奇派の親玉となって活躍した[30][31]。同時期、アメリカではジム・コルネット主宰のスモーキー・マウンテン・レスリングや初期のECWで活動[3]。ECWではタズマニアックと怪奇派コンビを組み、1993年12月4日にトミー・ドリーマー&シェーン・ダグラス、1994年3月5日にブルーズ・ブラザーズを破り、ECWタッグ王座を2回獲得している[32]。
1994年よりWCWに復帰し、5月22日にカクタス・ジャックと組んでナスティ・ボーイズからWCW世界タッグ王座を奪取[33]。その後はデイブ・サリバンとの兄弟アングルを経て、11月よりザ・ブッチャー&ジ・アバランシュとスリー・フェイシズ・オブ・フィアー(The 3 Faces of Fear)なるトリオを結成、彼らに先んじて同年にWWFから移籍してきたハルク・ホーガンとの抗争を開始する[3]。翌1995年からは、ブッチャーとアバランシュをペイントレスラーのゾディアックとシャークに変身させ、カマラやミング、ザ・ジャイアントらを配下に、モンスター軍団のダンジョン・オブ・ドゥーム(The Dungeon of Doom)を率いて活動[34]。自らをザ・タスクマスター(The Taskmaster)と称し、ザ・ウィザードことキング・イヤウケアの「息子」として、ホーガン、スティング、ランディ・サベージらベビーフェイス勢との抗争を指揮した[3]。
WCWではエリック・ビショフの体制下、リック・フレアー、アーン・アンダーソン、ラリー・ズビスコらと共にブッカーも兼任していたが、マッチメイクを巡ってブライアン・ピルマンなど選手との確執も起こしている(詳細は「ブライアン・ピルマン」の項を参照)[3]。妻だった女性マネージャーのウーマンとクリス・ベノワとの不倫アングルでは、ウーマンを巡ってベノワと抗争を展開したが、ベノワとウーマンは実際に恋仲になり、ウーマンはサリバンと離婚の上で正式にベノワと再婚した[35]。1997年4月12日にはWCWとの提携ルートで新日本プロレスの東京ドーム大会に来日し、ベノワとの因縁マッチを行っている[36]。WWFとのマンデー・ナイト・ウォーズが激化していた1998年からはブッキング業務に専念し[3]、2000年1月には一時更迭されていたビンス・ルッソに代わってヘッド・ブッカーに就任したが[37]、ブッキングに不満を持つベノワ、エディ・ゲレロ、ディーン・マレンコ、ペリー・サターンらが同月にWWFに移籍し、ほどなくしてサリバンも退陣した。
2001年のWCW崩壊後は、2003年にTNA、2006年にジャガロ・チャンピオンシップ・レスリングに登場[3]。2014年にはNWA殿堂に迎えられた[38]。後年も各地のインディー団体に時折出場していた[39]。
2024年5月12日にフロリダ州で事故に巻き込まれ、手術を受けたが複数の合併症を患い[40][41]、8月9日に死去[1]。同日の朝に訃報が発表された。74歳没[41][42]。
プレイング・マネージャーとして、NWAやWCWにおいてヒールのマネージメントも兼任していた(サリバン自身のマネージャーは、妻でもあったウーマンをはじめ、ゲーリー・ハート、サー・オリバー・フンパーディンク、センシュアス・シェリー、ジャクリーンなどが務めていた)[1]。