ケルン大司教(ケルンだいしきょう、Erzbischof von Köln、複数形は Erzbischöfe von Köln)は、カトリック教会のドイツ、ケルン教区の首長、大司教である。
ローマから最も早くキリスト教が伝来したケルンは、313年皇帝コンスタンティヌス1世が発布したミラノ勅令により司教座が設置された。8世紀末には司教座が昇格し大司教座になり同時に領地は大司教領に昇格した。6世紀末〜13世紀末にかけてケルン司教(大司教)はフランク王国・東フランク王国・神聖ローマ帝国の宮廷と密接な関係を持った。
大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教を領主とする聖職領邦となり、大司教座附属学校 (Domschule) の置かれたケルンはライン川流域の政治・文化の中心となった。またドミニコ会が設立したケルン大司教区付属神学校 (studium generale et solemne) ではアルベルトゥス・マグヌスやマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義を行ない、スコラ学最大の神学者となるトマス・アクィナスなどが学んだ。そしてマイスター・エックハルトによってケルン大司教区付属神学校と大司教座附属学校はドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなり、両校を母体に1388年ケルン大学が創立された。
1198年、ローマ教皇インノケンティウス3世はヴェルフ家とホーエンシュタウフェン朝のローマ王位争いについて、
と宣言したため、ケルン大司教は事実上の選帝侯に昇格し大司教領も事実上の選帝侯領に昇格した。
1356年皇帝カール4世が金印勅書を発布し大司教は正式に選帝侯に昇格した。
1457年ケルン市は帝国自由都市となり、大司教選帝侯の新たな首都ボンとなった。
15世紀にマインツ選帝侯が行うようになるまでは選出された国王に帝冠を戴冠するのはケルン大司教選帝侯の職務であった、またケルン大司教選帝侯は帝国の構成国の一つイタリア王国の大書記官長だったが時代が進むに連れその官位は形式上のものになった。
1500年ケルン大司教選帝侯領は帝国クライスの一つクールライン・クライスを構成する一つとなった、しかしクールライン・クライスは構成する10領邦中4領邦(ケルン大司教選帝侯領含め)が選帝侯領だったので他6領邦に発言権はなかった。そのためクールライン・クライスは帝国唯一の“選帝侯・クライス”となった。
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カトリックの牙城であった大司教選帝侯領であるが、宗教改革の影響を受け、当時の大司教選帝侯ゲープハルトは プロテスタントに改宗した。その後1583年ケルン司教区戦争が勃発しゲープハルトは大司教選帝侯領から追放された。
三十年戦争(1618年~1648年)では、カトリック側で参戦した。そしてプロテスタント側で参戦していたフランス王国に領土を侵略されその地位を脅やかされた。三十年戦争後、北ドイツの諸侯たちがプロテスタントに改宗していき大司教選帝侯としての影響力は徐々に薄れていった。
18世紀初頭には度々フランス王国の侵略や占領にあった。
1583年〜1761年まではバイエルン系ヴィッテルスバッハ家が大司教位及び選帝侯位を独占した。
1789年にフランス革命が起き、それが原因となって引き起こされたフランス革命戦争及びナポレオン戦争では幾度ともなく領土を占領された。
そして1801年リュウネヴィルの和約でオーストリア(神聖ローマ皇帝)はフランス(ナポレオン)のライン左岸(ラインラント)割譲に伴い、大司教選帝侯領は選帝権を失い選帝侯領は消滅し、他の領邦と何ら変わりのない、いち大司教領へと降格した。
その後、一聖職諸侯・聖職領邦として、かろうじて存続していたケルン大司教領も1803年2月25日、帝国代表者会議主要決議により以下のことが決定し消滅した。