ケン・ボイヤー

ケン・ボイヤー
Ken Boyer
1955年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ミズーリ州リバティ
生年月日 1931年5月20日
没年月日 (1982-09-07) 1982年9月7日(51歳没)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1949年
初出場 1955年4月12日
最終出場 1969年8月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • セントルイス・カージナルス(1971 - 1972, 1978 - 1980)

ケントン・ロイド・ボイヤーKenton Lloyd Boyer , 1931年5月20日 - 1982年9月7日[1])はMLBセントルイス・カージナルスなどに所属した野球選手アメリカ合衆国ミズーリ州リバティ出身。右投げ右打ち。オールスター選出7回、ゴールドグラブ賞5回受賞の1950年代 - 1960年代のMLBを代表する堅守の三塁手である。

同じくカージナルスなどに所属した投手のクロイドは兄、ニューヨーク・ヤンキース大洋ホエールズに所属した三塁手のクリートは弟。7男7女の14人兄弟であるが[2]、男子は全員プロ入りしている(4人はメジャー未昇格)[3]

経歴

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プロ入り - マイナー

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高校卒業時の1949年にカージナルスのトライアウト参加をすすめられたボイヤーは、元々野手であったが、強肩に目をつけたチームは投手として契約する。プロ初年度はクラスDでプレー、投手としてまずまずの成績を残す一方、打者としては打率.455を記録した。2年目はコントロール難や変化球の習得に苦労していたが、チームの三塁手がいなくなったため、登板しない日はとりあえず三塁を守ることとなった。しかし、投手としてより打者としての成績の方が良かったため、翌1951年からは正式にAで三塁手としてプレーする。シーズン終了後には徴兵され、2年間海外で過ごすこととなった。除隊後の1954年はAAで過ごしたが、ここで1944年の首位打者であるディキシー・ウォーカー監督に徹底的に攻守を鍛えられた。

セントルイス・カージナルス時代

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前年オフに正三塁手をトレードで放出していたチームは、1955年の開幕からボイヤーを三塁手として起用する。この年は打率.264、18本塁打、22盗塁とルーキーとしてはまずまずの成績を残した。1956年には打撃好調で初のオールスターに選出される。最終的にはスタン・ミュージアルの27本に次ぐチーム2位の26本塁打を記録した。1957年は新人に三塁のポジションを明け渡し、外野手にコンバートされたが、翌1958年にはカート・フラッドがセンターに定着したため三塁に復帰し、初のゴールドグラブ賞を獲得する。打撃面でもチームトップの23本塁打、90打点を記録するほか、同年オフには日米野球来日メンバーに参加している。1959年 - 1961年は3年連続で打率、本塁打、打点の3部門でチームトップを記録するなど主軸選手として活躍した。1959年 - 1964年はオールスターに連続選出、ゴールドグラブ賞も4回受賞した。また1959年には自己最長となる29試合連続安打を[4]、1961年と1964年にはサイクルヒットを記録している[5]。また、1961年から1964年にかけて4年連続で24本塁打を記録。4年連続で20本以上の本塁打を記録し、しかも同じ本数という選手はこの時のボイヤーが第一号で、のちに1984年から1987年にかけてフレッド・リンが23本塁打を記録した2例しかない。

ワールドシリーズ

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1964年、ナ・リーグ優勝を果たしたカージナルスは、弟クリートの所属するニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズへと進出する。1勝2敗で迎えた第4戦は、初回の3失点で0対3と負けていた。1死満塁でむかえた6回の打席で、アル・ダウニングから左翼に満塁本塁打を放ち、4対3でこの試合を制する。第7戦ではクリートと共に本塁打を放ち、初めてワールドシリーズの同じ試合で本塁打を打った兄弟となった[6]。結局シリーズは、4勝3敗でカージナルスはチャンピオンとなった。またボイヤー自身はシーズンMVPを獲得した。

1965年もカージナルスでプレーしたが、8年ぶりに20本塁打を割るなど衰えが見え始めていた。オフの10月20日に2選手とのトレードでニューヨーク・メッツへ移籍する。

移籍後・引退まで

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35歳となった1966年は、創設間もない弱小球団メッツの主軸としてチームトップの61打点、2位の14本塁打を記録するが、1967年は一塁手としての出場も増え、打撃不振のためにシーズン半ばにサンディ・アロマーと共にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍する。移籍後は少し持ち直したかに見えたが、翌1968年は開幕から不調で5月2日に解雇、10日にロサンゼルス・ドジャースと契約した。ドジャースでも控えの野手としてすごし、1969年いっぱいで引退した。

通算長打率.462は1000試合場出場した三塁手としては3位である。

引退後

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ボイヤーのカージナルス在籍時の背番号「14」。
セントルイス・カージナルスの永久欠番1984年指定。

1971年、1972年は古巣カージナルスのコーチを務め、その後カージナルス傘下のマイナーチームで監督を歴任する。1978年にはカージナルス監督に就任する。2年目の1979年はリーグ3位とまずまずの成績を残すが、1980年は18勝33敗となったところでホワイティ・ハーゾグと交代、再びマイナーチーム監督をシーズン終了まで務めたが、この頃に肺癌に罹患。その後闘病生活を送ったが、1982年9月8日に51歳で死去した[7]

死後、1984年にボイヤーのカージナルス在籍時の背番号『14』はセントルイス・カージナルスの永久欠番に指定された。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1955 STL 147 574 530 78 140 27 2 18 225 62 22 17 1 5 37 5 1 67 6 .264 .311 .425 .735
1956 150 639 595 91 182 30 2 26 294 98 8 3 2 3 38 7 1 65 18 .306 .347 .494 .841
1957 142 598 544 79 144 18 3 19 225 62 12 8 4 5 44 8 1 77 11 .265 .318 .414 .732
1958 150 631 570 101 175 21 9 23 283 90 11 6 1 8 49 8 3 53 15 .307 .360 .496 .857
1959 149 633 563 86 174 18 5 28 286 94 12 6 0 1 67 7 2 77 7 .309 .384 .508 .892
1960 151 616 552 95 168 26 10 32 310 97 8 7 0 4 56 10 4 77 13 .304 .370 .562 .932
1961 153 663 589 109 194 26 11 24 314 95 6 3 0 5 68 9 1 91 11 .329 .397 .533 .930
1962 160 691 611 92 178 27 5 24 287 98 12 7 2 2 75 7 1 104 15 .291 .369 .470 .838
1963 159 693 617 86 176 28 2 24 280 111 1 0 0 4 70 10 2 90 20 .285 .358 .454 .838
1964 162 704 628 100 185 30 10 24 307 119 3 5 0 4 70 12 2 85 22 .295 .365 .489 .854
1965 144 604 535 71 139 18 2 13 200 75 2 7 4 7 57 3 1 73 16 .260 .328 .374 .702
1966 NYM 136 534 496 62 132 28 2 14 206 61 4 3 1 7 30 5 0 64 15 .266 .304 .415 .719
1967 56 194 166 17 39 7 2 3 59 13 2 1 0 2 26 3 0 22 6 .235 .335 .355 .690
CWS 57 190 180 17 47 5 1 4 66 21 0 2 2 1 7 0 0 25 4 .261 .287 .367 .654
'67計 113 384 346 34 86 12 3 7 125 34 2 3 2 3 33 3 0 47 10 .249 .312 .361 .673
1968 10 25 24 0 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 6 2 .125 .160 .125 .285
LAD 83 243 221 20 60 7 2 6 89 41 2 2 0 5 16 3 1 34 2 .271 .317 .403 .720
'68計 93 268 245 20 63 7 2 6 92 41 2 2 0 5 17 3 1 40 4 .257 .302 .376 .678
1969 25 36 34 0 7 2 0 0 9 4 0 0 0 0 2 0 0 7 2 .206 .250 .265 .515
MLB:15年 2034 8268 7455 1104 2143 318 68 282 3443 1141 105 77 17 63 713 97 20 1017 185 .287 .349 .462 .810
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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年度別監督成績

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年度 球団 年齢 試合 勝利 敗戦 勝率 順位 プレーオフ
1978 STL 47 143 62 81 .434 5
1979 48 163 86 76 .531 3
1980 49 51 18 33 .353 4
通算 3年 -- 357 166 190 .466 --

背番号

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  • 14(1955年 - 1968年途中)
  • 45(1968年途中 - 同年終了)

参考資料

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  1. ^
  2. ^ Ken Boyer.Net. “Biography”. 2008年3月5日閲覧。
  3. ^ Ken Boyer.Net. “Facts”. 2008年3月5日閲覧。
  4. ^ The BASEBALL Page. “Ken Boyer”. 2008年3月5日閲覧。
  5. ^ Ken Boyer.Net. “Achievements”. 2008年3月5日閲覧。
  6. ^ The BASEBALL Page. “Clete Boyer”. 2008年3月5日閲覧。
  7. ^ Google グループ. “<Archive Obituary> Ken Boyer (September 7th 1982)”. 2008年3月5日閲覧。

外部リンク

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