『ゲーテのファウストからの情景』(ゲーテのファウストからのじょうけい、ドイツ語: Szenen aus Goethes Faust)は、19世紀ドイツ・ロマン派の作曲家ロベルト・シューマン(1810年 - 1856年)が作曲した独唱、混声合唱、児童合唱、管弦楽のための音楽作品[1][2]。作品番号は付けられておらず、「WoO 3」とされている[2]。
序曲と全3部からなり、演奏時間は約1時間55分(序曲約8分、第1部約17分、第2部約45分、第3部約45分)[1][2]。ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年 - 1832年)の劇詩『ファウスト』(第一部および第二部)を題材として、1844年から1853年にかけて作曲された[3][2]。
シューマンの合唱曲には、オラトリオ『楽園とペリ』(作品50、1843年作曲)や劇付随音楽『マンフレッド』(作品115、1848年 - 1849年作曲)といった管弦楽を伴う大規模作品があるが[4]、中でもこの『ゲーテのファウストからの情景』は、編成の大きさ、10年間という作曲期間に作曲家の精力が最も集中された点において、シューマンの全創作のうちでも畢生の大作といえるものとなった[5][2]。
シューマンの作曲覚書(計画帳)によると、以下の通りである[6][2]。
全曲はおおむね第3部、第1部、第2部、序曲の順で成立しており、日本の音楽学者前田昭雄は、『ファウスト』最奥の本質的なところから筆が起こされているとする[2]。
1844年1月25日から5月末にかけて、シューマンは妻クララのロシアへの演奏旅行に同伴した[7]。その途上、エストニアのドルパッド(タルトゥ)において『ファウスト』終末部に霊感を受けたシューマンは、ライプツィヒに戻ると『ファウスト』の音楽化の構想を練り始めた[6][7]。しかし、5か月間にわたる旅行の負担[8]に加えて、『ファウスト』の音楽に精魂を傾けたことによる神経疲労からシューマンの体調は悪化し、8月には精神障害の症状に悩まされるようになった[9][7]。シューマンは『ファウスト』第2部の終わりの情景から作曲に取りかかったものの、作品に描かれている天の超越性や透徹した精神性、光の明澄さを音楽で表現するために、シューマン自身の言によると、心身ともに「消耗し尽くして」しまわなければならなかった[10]。
また、シューマンは当初『ファウスト』をオペラ化することを考えていたが、原作の持つ巨大さ、複雑さ、濃密さのために、オペラではなく『ファウスト』からいくつかの場面を抜き出すことにより交響詩的な作品をめざすことにした[11]。病気のために作曲は一時中断されたものの、ドレスデンに移った後もシューマンは断続的にこの作品に取り組んだ[10][8][12]。1849年8月29日には、「ゲーテ生誕100年祭」にちなんでこの曲がドレスデン、ヴァイマル、ライプツィヒで部分的に上演されている[2]。
最後に序曲が書かれたのは、シューマンがデュッセルドルフに移った後だった。フランスの著述家マルセル・ブリオン(1895年 - 1984年)によると、シューマンはこの序曲で『ファウスト』全体が集約されるような音楽を書こうとした。「巨大な劇的迫力をもって『ファウスト』全体の人間的、また超人間的悲劇を隈取りつつ、壮大な内的統一を保持するため、シューマンは自己の精神が澄み切る瞬間を最後の最後まで待ち続け、1853年4月13日から15日にかけての3日間で一気に書き上げた」としている[10]。
シューマンの死から6年後の1862年1月14日、ケルン、ギュルツェニヒ・ホールにおいてフェルディナント・ヒラーの指揮による[10][2]。
全曲完成前の1848年6月25日、ドレスデンでシューマン自身の指揮により私的に初演された。公的には、1849年8月29日のゲーテ生誕100年記念日にドレスデンでシューマン自身が、ライプツィヒでユリウス・リーツが、ヴァイマルでフランツ・リストがそれぞれ指揮して部分初演されている[2]。リストは、「この美しい大作はヴァイマルでこれまでになく美しい、崇高な感動を与えました。全体の印象は見事の一言に尽きます。」と手紙で報告している[10]。
1977年4月29日、東京都、渋谷区のNHKホールにてヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮、NHK交響楽団、独唱:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ 、ユリア・ヴァラディ、平野忠彦ほかによって行われた。
序曲と全3部からなる[1][2]。ゲーテの原作は2部構成であるが、シューマンは音楽を3部構成とした[2]。
序曲は全曲の最後に完成された。シューマンはここで『ファウスト』の全体を凝縮し、象徴的に表現しようとした。前田はこの序曲を「独特の崇高様式」と呼んでおり[6][2]、さらに結尾について、「一種形而上的なアポテオーゼ(神格化)とも呼びたいような、内的な祝祭の響きが込められている。」とする[6]。
第1部では、『ファウスト』第1部を占めるグレートヒェン[注釈 1]の悲劇を扱うが、シューマンはこの悲劇を全体としてではなく、本質的な3つの局面を取り出すことによって象徴的に描いた。外面的な出来事の叙述は思い切って略し、グレートヒェンの内面の葛藤に焦点を当てている[6]。前田によれば、第2景「悲しみの聖母像の前でのグレートヒェン」において、内心の真摯な「語りかけ」と表現としての「歌」とが織り合わされて内に向かう劇性が追求されており、終わり近くでほとばしるように出る救済への切実な叫びには、マーラーをも先取りする深い表現性が込められている[2]。また、第3景「寺院の中で」では、舞台的な音楽形成ではなく、強迫観念の錐をもみ込むような音楽となっており、ワーグナーとは異なる内的心理的なシューマンの音楽的ドラマトゥルギーともいうべきものの最も優れた例のひとつとされる[6]。
第2部では『ファウスト』第2部から、グレートヒェンの悲劇後のファウストの再生と死までが扱われる[2]。とりわけ第4景「アリエル、日の出」(第1曲)は、音楽の力と充実において全曲の頂点のひとつを担っている[2]。
第3部では『ファウスト』第2部の終末部に基づき、ファウストの救済を主題とした形而上的音楽となる[6][2]。全曲でもっとも規模が大きいだけでなく、7つの部分からなり、ゲーテの原作が切れ目なく続けて把握される点で、前の二つの部分と根本的に異なる[6]。第3部の音楽について前田は、「その深さと豊かさと、神秘的な美しさは、全く筆舌に尽くせないものがある。音楽芸術が、気高く深いものとして到達しうる最高の境地に、この第3部は到達している。」[6]、「よくゲーテの世界文学の高みに迫るものといえよう。」と述べている[2]。 また、ブリオンは次のように述べている。
この曲の「隠者の合唱」を聴くと、天上の平安の国へと、またすべて人間的なものを超越し、真の精神の光を目の当たりにさせる晴朗なエクスタシーへと導かれ、高められるように感ずる。シューマンの作曲した教会音楽すら、これほどの神聖な情感、神的な直感に達してはいない。シューマンは見事な簡潔さで天使の合唱によって天上の喜びを称えさせ、厳かにも甘美な和音の響きの中で聖母マリアを顕現させる。 — マルセル・ブリオン『シューマンとロマン主義の時代』より[10]
ゆっくりと、荘厳に―少し動きを持って (Langsam feierlich - Etwas bewegter) ニ短調、4/4拍子[2]。
序奏は重い響きからほとばしる奔流のような啓示的動機から始まり、やがて速度を増して主部に入る[2]。 主部はソナタ形式に基づくが圧縮されている。第1主題は序奏の動機から導き出されたもの。気高く美しい第2主題を経て、短く熱気のこもった展開部へと続く。再現部の後、コーダではファンファーレの強奏となる[2]。
第1主題
第2主題
第1部ではグレートヒェンの心に焦点を当て、その内面の葛藤が描かれる[2]。
(ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレス)
グレートヒェンとファウストの愛の会話。明るい流暢な前奏で始まる[2]。悪魔メフィストフェレスとの契約によって、ファウストは美しい若者の姿に身を変え、純真な乙女グレートヒェンに近づく[6]。ファウストが言い寄る言葉に、グレートヒェンは心を動かす[2]。
グレートヒェンとファウストの対話
(グレートヒェン)
局面は一転し、悲劇への道を進む。ヴィオラの刻むモティーフと木管のあえかな流れによって、乙女の深い悲しみが歌われる[2]。城壁のくりこみに、悲しみの聖母像がひっそりと収められている。その前に生けられたひともとの花へ、グレートヒェンが身を投げてひたすらに祈る。愛を捧げたファウストが消息を絶ち、不安と絶望におののく孤独の乙女はただ聖母の慈愛にすがり、救いを乞う[6]。
(グレートヒェン、悪霊)
グレートヒェンの心の葛藤が最終的な局面に至る[2]。 冒頭、巨大な音の壁が大伽藍の石壁とグレートヒェンの心理的な切迫状況を表す。厚い壁の前で、乙女の歌は切れ切れとなって飛び散る。背後では、「悪霊の声」(合唱)がレクイエムの一節「この日、怒りの日。世界のすべては灰とならん。」を繰り返し、乙女の良心に絶え間なく執拗な告発を浴びせかける[6][2]。
グレートヒェンの悲劇以後のファウストとその死までが扱われる[2]。
(アリエル、妖精たち、ファウスト)
グレートヒェンの悲劇に深い傷手をこうむったファウストが、自然の懐に抱かれて癒やしを受ける回生の場面[6]。花々が咲きこぼれる草原にファウストがぐったりと横たわっていると、そこへ天使アリエル(テノール)が率いる妖精たちの合唱が管弦楽とともに自然賛歌を繰り広げる。夕方の薄明から夜となり、心身を癒やされたファウストは「谷間は緑に、山々は緑にあふれ」と歌う[6][2]。やがてアリエルが日の出の時を告げる。その壮大な輝かしさに、ファウストは新しい生への決意を力強く誓う。「さらば太陽よ、わが後方を助けよ」[6][2]。
アリエルが日の出の時を告げる
(欠乏、罪、憂い、困窮、ファウスト)
ファウストが超自然の霊との対決の結果、呪いを受けて盲目となる場面[6]。真夜中の闇に4人の灰色の魔女たち(「欠乏」、「罪」、「憂い」、「困窮」)が現れる。「憂い」は煙となってファウストの城に忍び込み、自室で待ち受けていたファウストと対話を交わす[6]。「憂い」はファウストを支配しようとするが、ファウストは敢然とこれを拒絶する。「憂い」は呪いを吐きかけて消える。「人間は一生の間、めくらなのだ。さあ、ファウストよ、お前もついにはそうなれ!」[6]。フルートの虚ろな響きが魔女の呪いの妖気を象徴する[2]。盲目となったファウストのモノローグ「夜が深く、深く、忍び込んでくるようだ。心の中には、しかし光が輝く」。不屈のファウストはこの光を頼りに、かねてから志していた理想の楽園を地上に築くことを決意する[6][2]。
(メフィストフェレス、妖怪たち、 ファウスト)
夜、メフィストフェレスが呼び集めた妖怪たちが工事をすすめる様子を希望の心眼で見守るファウスト。自分の生涯を捧げて夢見た理想郷の実現にファウストは幸福の極みを味わい、禁断の言葉を口にする。「瞬間よ! とどまれ! おまえはあまりに美しい!」[6][2]。ファウストは倒れ、金管楽器が強奏する。メフィストフェレスの回想的モノローグ。合唱は虚ろな時の響きを歌う。「時は止まった。その針は落ちた。ことは終わった―。」[2]。
ファウスト最期の言葉
ファウストの救済と変容が描かれる。第2部までとは構成方法が異なり、ゲーテの原作が切れ目なく続けて把握されている[6][2]。
第3部は以下の7つの部分からなる。
前田は、これらのうち1 - 3を導入部とし、4がファウストの救済と昇天を歌う中軸部分、5 - 6で変容を遂げたファウスト(マリアヌス博士)と浄化されて栄光の聖母に従うグレートヒェン、7の「神秘の合唱」という4区分としており、以下それに従う[6][2]。
独奏チェロ
昇天した少年たちの合唱
グレートヒェンの感謝の祈り
「神秘の合唱」
ゲーテの『ファウスト』は、ドイツ・ロマン派の熱狂と動揺のすべてを体現する作品として、シューマン以前にもE.T.A.ホフマンやウェーバー、メンデルスゾーンらがこの作品の音楽化を試みている。しかし、この作品が持つ無限の多様性を音楽化できたものはいなかった[11]。
シューマンと『ファウスト』の出会いは、彼のギムナジウム時代にまでさかのぼる。シューマンは1820年、10歳のときから8年間、出身地ツヴィッカウのギムナジウムで学んだ。書店を経営していた父親と似て読書好きだったシューマンは、ギムナジウムで「ドイツ文学」サークルに入り、リーダーとなった。『ファウスト』はこのころにほとんど暗記するほど読み、シューマンは友人たちから「ファウスト」または「メフィスト」などと呼ばれた[13][14]。
ブリオンによると、シューマンは幼年時代からゲーテを尊敬していたが、青年期に傾倒したジャン・パウルへの親近感とは異なり、ゲーテに対しては畏怖の念を抱いていたという[11]。シューマンが21歳のときの日記には、「お前の中から警句的な、機知的なものを取り除け―それはお前の本性にはない。単純に、自然に書け。ゲーテはつねに良いお手本だ。正確と簡潔に慣れよ、表現の連続性にも。意味をぴたりと射当てる言葉を見出すまで、探しつづけること。」(1831年10月17日付)という記述がある[15]。シューマンの四女オイゲーニエの回想では、シューマンはゲーテの詩から人生の師となるような銘を選び出して心に刻んでいた[16]。
本作は、シューマンの「ライプツィヒ時代」に当たる1844年に『ファウスト』第2部終末の場面(この曲の第3部)を作曲して以来、最後の序曲の完成まで10年がかりの構想となった[5]。この間にシューマンはライプツィヒからドレスデンへ、ドレスデンからデュッセルドルフへと移り住んでおり、彼の主な創作期間がこの中に入り込んでいる。オペラ『ゲノフェーファ』、劇付随音楽『マンフレッド』、交響曲第2番、同第3番「ライン」などの創作の背後で、『ファウスト』作曲の努力が続けられ、深い影のように添っていた[2]。 前田は、シューマンにとってこの課題との対決は、自分の芸術家としての実存を賭けた、根源的な行為となったとする[6]。1850年、第2部の第2曲および第3曲に取り組み始めたが、そのもっとも悲劇的な場面でシューマンは音楽と物語のただなかに自己を投影する方法を採り、シューマン自身がファウストになりきっていた。このため、「ファウストの死」の部分では亡霊につきまとわれ、自分の墓穴が掘られるような錯覚に襲われたという[10]。
完成までに要した時間のために、1844年に作曲された最後の場面と1849年、1850年に作曲されたその他の部分との間には不均衡が目立っている[11]。このこともあり、この作品を一晩で全曲上演することについて、シューマン自身が「ときには物珍しさから、あってもよいことだろうが」として困難であることを認めている。シューマンのこの言葉には、晩年に至って世の音楽界に背を向けたことへのアイロニーと諦念を聞き取ることができる[6]。しかしそれだけでなく、音楽としての世界の深さ、内面性によって、この作品が演奏会における効果を超えたものとなっていることも事実であり、これは原作の『ファウスト』とも共通する点である[6][2]。
前田は、「こうしてゲーテの世界文学の大きさと深さとに、おそらく音楽芸術からしてもっとも真摯な高貴な魂の接近がなされ、かけがえのない実を結ぶことになった。」とする[2]。さらに前田は、シューマンの中後期の作品理解、とくに大作への理解が遅れており、判断と評価の適正な基盤はまだ整っていないとしつつ[17]、「ドイツ19世紀芸術の偉大な遺産のひとつとして、この作品の真価に時代を超えた永遠の貢献が認められるのも遠いことではあるまい。」と述べている[2]。