1959年11月13日 | |
プロフィール | |
---|---|
生年月日 | 1938年5月8日 |
没年月日 | 2020年9月24日 |
没年齢 | 82歳(数え83) |
瞳の色 | ブルー |
毛髪の色 | ハニーブロンド[1] |
公称サイズ(1959時点) | |
身長 / 体重 | ― cm / ― kg |
スリーサイズ | 94 - 56 - 94 cm |
活動 | |
備考 | ミス・ワールド1959 |
他の活動 | モデルエージェンシー経営 |
モデル: テンプレート - カテゴリ |
コリーネ・ロッツヘーファ(Corine Spier-Rottschäfer, 1938年5月8日 - 2020年9月24日)は、オランダのモデル。1959年、ミス・ワールド優勝(オランダ代表として初)[2]。
2012年、プエルト・リコを代表してミス・ユニバースに出場したBodine Koehlerは、姪である[3]。
1957年、Miss Holland 1957に選ばれる。数週間後(6月26日)、Miss Europeに選ばれる(オランダ代表として初)[5]。このとき、イングランド代表として出場したSonia Hamiltonは、ミス・ユニバース1957で3位入賞。また、フィンランド代表のマリタ・リンダールは1957年11月、ミス・ワールド1957に選ばれる。Miss Europeとしての任務を果たすため、コリーネ自身はミス・ユニバース1957に参加できなかった。ミス・ユニバースのプログラムブックにはオランダ代表として彼女の名がある[5]。
1958年7月26日、カリフォルニア州ロングビーチで開催されたミス・ユニバースに出場、Top15に残り、ミス・フォトジェニックを受賞。一説に、ミス・ユニバースのプログラムブックに2回掲載された唯一の人物[5]。
1959年、ミス・ワールド1959に出場するのだが、11月10日、彼女は他の候補者より遅れてロンドンに到着した。Miss Holland組織委員会としては、Miss Holland 1959のPeggy Erwichを代表に送り込むつもりでいたが、ギリギリになってペギーにドイツでの大きな仕事(モデル)が入り、彼女にお鉢が回ってきた[6]。決勝開始数時間前、彼女のドレスに穴が開いているのが見つかった。イスラエル代表のジヴァ・ショムラートがドレスを貸してくれたため事なきを得た。ちなみに、ジヴァは3位入賞[3]。優勝決定の後、アメリカ代表Loretta Powellが彼女のスリーサイズ(37-22-37インチ)はパッドで「盛った」ものだと不正を訴えたが、再計測の結果、不正はなかった[7]。ロレッタはまた、審査員の一人がコリーネの婚約者であるとも主張した[1][8]。
ミス・ワールドの優勝賞金として4000ギルダー獲得。自動車と、ロイヤル・ダッチ・シェルから提供されたガソリン引換券もあったが、ロンドンからアムステルダムまで輸送できない、と、これらを売却。さらに6000ギルダーを得る。
1960年代前半、国際的なモデルとして成功。1960年代後半、アムステルダムにCorine's Agencyを設立。これはベネルックス初のプロモデルのエージェンシーで、世界的にも優れたエージェンシーとされる[2]。2002年、モデル業界より引退[9]。
1962年、元ジャーナリストで建築家のEdo_Spierと結婚。二人の子を儲ける[10]。