| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 | Cornel Dinu | |||||
ラテン文字 | Cornel DINU | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ルーマニア | |||||
生年月日 | 1948年8月2日(76歳) | |||||
出身地 | ムンテニア地方、ドゥンボヴィツァ県、トゥルゴヴィシュテ | |||||
身長 | 178cm[1] | |||||
体重 | 73kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF, MF | |||||
ユース | ||||||
1963-1966 | M・トゥルゴヴィシュテ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1966-1983 | D・ブカレスト | 454 | (53) | |||
代表歴 | ||||||
1968-1981 | ルーマニア | 75 | (7) | |||
監督歴 | ||||||
1984-1985 | D・ブカレスト | |||||
1985-1987 | CSトゥルゴヴィシュテ | |||||
1987-1988 | ASAタルグ・ムレシュ | |||||
1988 | オツェルル・ガラツィ | |||||
1989 | U・クルジュ | |||||
1989-1990 | / O・スコルニセシュティ | |||||
1992-1993 | ルーマニア | |||||
1996 | D・ブカレスト | |||||
1998-2001 | D・ブカレスト | |||||
2002-2003 | D・ブカレスト | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
コルネル・ディヌ(ルーマニア語: Cornel Dinu, 1948年8月2日 – )は、ルーマニア・トゥルゴヴィシュテ出身のサッカー選手。FCディナモ・ブカレストの歴代最多出場記録保持者である。選手としてはルーマニア代表で75試合に出場し、指導者としてもルーマニア代表監督を務めた。ポジションは攻撃的スイーパー、守備的ミッドフィールダー。
ルーマニアの南東部、ムンテニア地方・ドゥンボヴィツァ県・トゥルゴヴィシュテに生まれ、1963年から1966年までメタルル・トゥルゴヴィシュテの下部組織に所属した。1960年代前半のディヴィジア1(1部)ではFCディナモ・ブカレストが4連覇を達成しており、ディヌは1966年にディナモに移ると、同年のトップチームデビューから1983年に現役引退するまでディナモ一筋のサッカー人生を送った。1963年には3歳年上のミルチェア・ルチェスクがディナモに加入しており、ディヌとルチェスクは1960年代後半から1970年代のディナモを牽引した。1970-71シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たし、1972-73シーズンにも優勝した。1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、1回戦のクルセイダーズFC(北アイルランド)戦セカンドレグで11-0という大勝を記録し、現在でも同大会における最大得点差記録となっている。1974-75シーズンにもリーグ優勝し、32得点を挙げたチームメイトのドゥドゥ・ゲオルゲスクはヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。自身4度目のリーグ優勝を果たした1976-77シーズンにも、ゲオルゲスクは2度目のヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いている。1981-82シーズンのUEFAカップ2回戦ではインテル(イタリア)と対戦し、ジュゼッペ・バレージ、アレッサンドロ・アルトベッリ、ヘルベルト・プロハスカなどがいる格上から金星を挙げた。同シーズンにはリーグ戦で自身5度目の優勝を果たし、1982-83シーズンには2連覇を達成した。ディナモ在籍中、ルーマニア年間最優秀選手賞には1970年、1972年、1974年の3度選出され、1968年と1973年の2度2位となった。ディナモではリーグ戦454試合に出場し、ディヴィジア1では6度、クパ・ロムニエイでは2度優勝したが、出場試合数は現在でもクラブ歴代最多出場記録である。ディヌ在籍時のディナモはUEFAチャンピオンズカップに5度出場しているが、2回戦の壁を超えられなかった。しかし、ディヌ引退直後の1983-84シーズンには準決勝に進出している。
1968年5月1日、オーストリア戦 (1-1) でルーマニア代表デビューした[1]。ルーマニア代表は1966 FIFAワールドカップまで5大会連続でヨーロッパ予選敗退に終わっていたが、1970年にはアンジェロ・ニクレスク監督に導かれ、1970 FIFAワールドカップに出場。グループリーグでは前回大会優勝のイングランド、2度優勝のブラジル、チェコスロバキアと同組となり、1勝2敗の3位でグループリーグ敗退に終わったが、イングランド戦・ブラジル戦はいずれも1点差での敗戦だった。ルーマニアの主要選手にはキャプテンのミルチェア・ルチェスク、ラドゥ・ヌンヴェイラー、フロレア・ドゥミトラチェなどがおり、ディヌ自身は3試合すべてにフル出場した。1950年代から1980年代までの30年間で、ルーマニアがFIFAワールドカップに出場したのは1970年大会が唯一である。1972年のフランス戦で初得点を挙げ、1980年のハンガリー戦では1試合2得点を挙げた[1]。
ルーマニアがUEFA欧州選手権本大会に初出場したのは、ディヌの現役引退後の1984年大会である。1981年までに75試合に出場して7得点を挙げ、75試合のうち38試合でキャプテンを務めたが、これは2013年時点でゲオルゲ・ハジ(65試合)、クリスティアン・キヴ(50試合)、コスティカ・シュテファネスク(43試合)に次ぐ歴代4位の数字である。
1984年には古巣ディナモの監督に就任し、その後はいくつかの中小クラブの監督を務めた。1992年、ミルチェア・ラドゥレスクの後任としてルーマニア代表に就任し、選手時代にライバルのFCステアウア・ブカレストのエースとしてディヌの好敵手だったアンゲル・ヨルダネスクに引き継ぐまで指揮を執った。1990年代後半以降には3度に渡ってディナモの監督に就任し、アドリアン・ムトゥなどを擁した1999-2000シーズンには、ディヴィジア1とクパ・ロムニエイの2冠を達成。1990年代のディナモはタイトルから遠ざかっていたため、ディヴィジア1制覇は8シーズンぶりであり、2冠は10シーズンぶりだった。ルーマニアのスーパーカップであるスーペルクパ・ロムニエイは、単一クラブが2冠を達成した場合には行なわれないため、2000年のスーペルクパは行なわれず、優勝クラブなしとなっている。クパ・ロムニエイでは2000-01シーズンに2連覇を達成した。2000-01シーズン途中には、ディナモのキャプテンを務めていたカタリン・ヒルダンが親善試合中に心停止を起こし、そのまま亡くなるという悲劇があった。2001年にいったんディナモの監督を退いたが、2002年に再び就任して2003年まで指揮した。2002-03シーズン最後までは指揮をとらなかったが、このシーズンのディナモはスーペルクパ・ロムニエイで準優勝し、クパ・ロムニエイで優勝している。