コロッケ(Korokke、英: Potato croquettes)は、茹でて潰したジャガイモやクリームソースに挽肉や野菜などを混ぜ合わせ、丸めて衣で包み、食用油でフライ状に揚げた、日本の洋食の一つ。西洋料理のクロケット(仏: croquette、蘭: kroket)を模倣して考案された。単にコロッケといった場合はジャガイモを使ったものを指し、クリームソースを使ったものはクリームコロッケと呼ばれて区別される。日本国外に逆輸出された日本式コロッケは日本語そのままに'Korokke'と呼ばれている。潰したジャガイモを使用したカツである。ジャガイモの代わりに魚を具材に使用した場合は魚カツと呼ばれる。
茹でたジャガイモを潰したマッシュポテトをベースとする庶民的な通常のコロッケ(ポテトコロッケ)と、ベシャメルソースを用いる洋食屋のクリームコロッケに大別される。これらの種にポテトコロッケは挽肉、みじん切りの炒めタマネギ、クリームコロッケはカニなどの魚介類などを混ぜ込み、俵型や小判型、勾玉型などに成形した後、小麦粉、とき卵、パン粉の順で衣をつけ、油で揚げて作られる。中身のソフトな食感と香ばしい衣との対照感を味わう料理であるため、揚げたてのかりっとした仕上がりが尊ばれる[1]。
トンカツ、カレーライスと共に大正の三大洋食の一つとされており[2][3][4][5][6][7][8][9][10]、大正末期から昭和の初めにかけての洋食大衆化の中で都市部の日本人に広く普及した。今日では家庭で調理されるほか、精肉店などでお惣菜としても販売されており、非常にポピュラーな料理となっている。 トッピングとして立ち食いそば・うどん店[11][12]やカレーライス店で使われるほか、サンドイッチや惣菜パン、卵とじの具として用いられることもあり、広く親しまれている。揚げる前の種にカレーなどの風味を付けるコロッケもある[12]ほか、ウスターソースやトマトケチャップや醤油など調味料をかけて食べるのが一般的である。
洋食の例に漏れず日本独自の進化を遂げたコロッケ(Korokke)は、日本国外でも日本料理の一つとして紹介されるようになった。特に西洋のパン粉と異なる日本スタイルのパン粉(Japanese style breadcrumbs、もしくはそのまま'PANKO'と呼ばれる)を使う日本式揚げ物の衣は、西洋のフライとは違った食感を持つということで区別される傾向がある。
ジャガイモのコロッケはヨーロッパ各国にみられる古典的な付け合せ料理であり、起源を特定するのは困難である。正確な記録や定説は存在しないが、明治時代の文明開化の中でフランス料理やイギリス料理の一つとして日本にもたらされたものと考えられる。1872年(明治5年)に刊行された『西洋料理指南』(敬学堂主人著)にはポテトコロッケの作り方が掲載されている[13]。
フランスのクロケット (croquette) は、ホワイトソースのアパレイユ(ミンチにした魚肉や鶏肉などとベシャメルソースを混ぜたもの)にパン粉をつけて調理したもので、現在の日本のクリームコロッケと同じである[14]。日本の文献では1872年刊行の『西洋料理通』(仮名垣魯文著)にホワイトソースの作り方が掲載されており、現在のクリームコロッケも当時の日本に存在していたと推測される[15]。
日本の文献に「コロツケ」の語が登場するのは、1887年(明治20年)刊行『日本・西洋・支那三風料理滋味之饗奏』(赤志忠雅堂、伴源平編)、1888年(明治21年)刊行『軽便西洋料理法指南』(マダーム・ブラン述・洋食庖人編)であり、後者にはメンチコロッケのレシピも記載されている[16]。1893年(明治26年)刊行の『割烹受業日誌』は高知尋常中学校の卒業生が在学中の調理実習ノートを元に編纂された書籍であり、ここに「ころつけ」としてポテトコロッケのレシピが記載されていることから、明治26年までには高知県でもコロッケが普及していたものと推測される[17]。1895年(明治28年)の女性誌『女鑑』には、「コロツケ」としてポテトコロッケが紹介され、「仏蘭西コロツケ」としてエビとペシャメルソースを用いたクロケット状の料理を紹介している[18]。
こういった文献から、「コロッケ」の語そのものはフランス料理の「クロケット」から派生した語であるが、日本では現在のポテトコロッケを「コロッケ」と呼んでおり、「〇〇コロッケ」と具材名を付けたものが登場するまでは、コロッケとはポテトコロッケを意味する語であったと推測される[19]。
1905年(明治38年)刊行の『欧米料理法全書』(田沼商会、高野新太郎編)、1908年(明治41年)刊行の『最新和洋料理法』(中川明善堂、割烹研究会編)には「ポテート クロケ」、「馬鈴薯のコロツケー」が記載されており、併せてサツマイモを用いたスイートポテトコロッケも紹介されており、ジャガイモのポテトコロッケ以外の総称として「コロッケ」という語が認識されるようになった[20]。
1905年(明治38年)頃より、東京銀座の洋食店「煉瓦亭」がメニューに初めてクリームコロッケを載せている。4代目主人によれば、当時はあくまで賄い料理であり、客に出した店はそれまでなかったという[21]。
1917年(大正6年)当時、洋食の豚カツは13銭、ビーフステーキは15銭だったのに比べ、コロッケは25銭と高価な料理であった[22]。またこの年には、「ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ♪[注 1]」という歌詞の「コロッケの唄」(作詞:益田太郎冠者)がヒットしている。
安価な惣菜としてのコロッケは1917年(大正6年)の東京「長楽軒」のメニューに端を発し、ここのコック阿部清六が関東大震災後の1927年(昭和2年)に立ち上げた精肉店「チョウシ屋」での商品化により、肉屋の惣菜としてのコロッケの地位は揺るぎないものとなった[23]。肉屋において多量に生じる、切断面の黒ずみで見栄えの悪くなった肉や細切れ肉、揚げ油に使えるラードなどの利用が、より安価なコロッケを提供できるようになった理由として挙げられる[24]。
元々が汎用性の高い料理法であったこともあり、こうして日本の食卓に定着したコロッケは各家庭や店ごとに様々な食材やアイデアを受け入れ、日本独自の料理としてのバリエーションが広がっていった。
調理が手軽で安価なことから、昭和後期頃からは日本各地で町おこしのためのご当地グルメとしても販売され[25]、手軽な「おやつ」としても販売されるようになった。ご当地コロッケとしては、「第1回全国コロッケフェスティバル」で優勝した富山県高岡市の高岡コロッケとコロッケグランプリで2年連続金将を受賞した群馬県高崎市の高崎オランダコロッケが著名である。このほかに「全国手づくりコロッケコンテスト」で金賞を受賞した山口県山口市の昭ちゃんコロッケ[26]などもある。
「肉屋のコロッケはうまい」との世評があるのは、揚げるために使用されている新鮮なラードに由来する、との通説がある[27]。なお、惣菜のコロッケには砂糖を加えることが多く、これによりコロッケは保水力が保たれ、甘くしっとりと仕上がる。また、料理店のコロッケは見栄えのよい俵型にまとめられ、惣菜のコロッケは狭い調理場内でタテに並べるために、平たい小判型にまとめられることが多い[28]。
具の水分量が多いと揚げ調理の際に破裂しやすいとされているが、東京家政大学教授の長尾らは油の温度が高いほど破裂しやすく、表面付近の水分量が大きな影響を与えていると報告している(長尾 et al. 1988)。調理時の破裂を防止する方法として、冷凍による-20℃や冷蔵による5℃程度への冷却が有効とされている(長尾, 畑江 & 島田 1991)。
余熱による内部温度上昇は見込めるものの俵形状にした場合、具材内部の温度は上昇しにくい[29]。また油温が高いと、適度な揚げ色になった時点でも中心温度の上昇は不十分とされる[30]。したがって、一般的に食中毒を防ぐ加熱条件の「75℃で1分以上の加熱」[31][32]に至り難いため[29]、具材は事前に十分に加熱した上で混ぜ合わせ、成形される必要がある[33]。なお、加熱不十分な具材を混ぜたことによる食中毒事例が報告されている[33]。また、市販品冷凍コロッケに表記されている調理条件「1回5分」の加熱調理では、内部の細菌類は不活化されていなかったとする報告がある[34]。
主となる具材や、混ぜる材料によって様々な種類がある。余ったおかずの再利用としてコロッケの技法が活用されたものも多い。
コロッケは日本で売られている冷凍食品の中では最も多く生産されている[35]。油揚げのみで簡単に調理可能な、下ごしらえ済みのコロッケを冷凍したもの。解凍せずに油揚げ調理すると、表面と深部の温度差により具が噴出する場合があるので要注意。
近年では揚げ物の健康面を考慮する消費者が多くなったことから、揚げずにオイルスプレーで油をかけオーブントースターやオーブンで焼き上げたり電子レンジで温めて調理が完了する冷凍コロッケも開発されている[36]。