コンラディン家(ドイツ語: Konradiner, 英語: Conradines)は、中世初期のドイツのフランケン地方にいた一族である。「コンラート家」(Haus Konrad)、ドイツ王を務めたことで「コンラディン朝」(コンラート朝)、フランケン朝とも呼ばれる(同じフランケン朝と呼ばれたザーリアー家と直接関係するため)。
なお、「コンラディン」は姓ではなく「コンラート」という意味である。当時のフランケン人には姓はなかった。「コンラーディン家」(コンラーディン朝)とも呼ばれる。
832年にテューリンゲンのラーンガウ伯ゲープハルト(? - 879年)を始祖とし、ゲープハルトの子ウード(830年 - 879年)、コンラート(855年? - 906年、大コンラート)と続いて世襲した家系である。大コンラートは東フランク王アルヌルフの庶腹の長女グリスムートを妻に迎え、また従妹オーダ(ウータ)はアルヌルフの妃となり嫡子ルートヴィヒ4世を産むなど、東フランク王家との関係が深かった。
9世紀後半、北ボヘミアからバンベルクを発祥とするバーベンベルク家と、フランケンおよびテューリンゲンの支配を巡って争っていたが、東フランク王アルヌルフが女婿の大コンラートを支持したため、バーベンベルク家は衰退し、ボヘミアとオーストリアの支配を維持するのみとなった。後に大コンラートの子の小コンラートことコンラート1世はフランケン公の地位を確立した[1]。
コンラート1世自身は、東フランク王国の王女グリスムートを母に持ち、911年に母方の叔父ルードヴィヒ4世(幼童王)が夭折すると、今度はザクセン公のリウドルフィング家のオットー貴顕公の推挙により、コンラート1世がドイツ王となった[2]。
しかし、古来よりゲルマンの風習である、盟主(王)を擁立する仕来りは小ピピンやアルヌルフの例があり、ドイツ王に即位したコンラート1世は有力貴族ザクセン公ハインリヒ1世(オットー貴顕公の子)と対立を繰り返した。また、ロートリンゲンを西フランクに奪われ[3]、コンラディン家の統制勢力を弱め、反抗する部族大公との抗争の最中に負傷した[4]。918年、負傷が原因で重病となったコンラート1世は男子がなく、ドイツ王国の分裂を防ぎ、有力貴族と妥協するために、宿敵ハインリヒ1世をあえてドイツ王の後継者として定めて、間もなく37歳で死去したが、後に娘の孫のひ孫にあたるコンラート2世がザーリアー朝を起こして神聖ローマ皇帝となった。
一方、フランケン公の地位は弟のエーバーハルト3世(885年 - 939年10月2日、在位:911年 - 939年)が継ぎ、ラーンガウ伯の地位は末弟のオットー(890年 - 918年)が継いだ。しかし、同918年にオットーも子がいないまま28歳で亡くなり、コンラディン家を相続したエーバーハルト3世も938年に王弟ハインリヒの起こしたドイツ王オットー1世に対する反乱に参加、翌939年に戦死し[5]、ついにフランケン公系コンラディン家は断絶した。
ただ、コンラート1世の女婿であるヴォルムス伯のヴェルナー5世(ザーリアー朝の祖)がエーバーハルト3世の後を継いで、フランケン公を相続した。
一方、コンラディン家はロートリンゲン(ロレーヌ)にも所領を持ち、大コンラートの弟ヴェッテラウ伯ゲープハルト(2世)は、903年頃、在地貴族の擁立を受けてルートヴィヒ4世幼童王よりロートリンゲン公とされた[6]。ゲープハルト2世は910年に騎馬民族のマジャール人との戦いで戦死し[7]、同家はその地位を失ったが、ゲープハルトの子ヘルマン1世が、ホーエンフェルス家出身のシュヴァーベン大公ブルヒャルト2世の寡婦レゲリンダと結婚し、926年にシュヴァーベン大公の地位を得た[8]。その後シュヴァーベン大公位は女婿でオットー大帝の息子リウドルフに継がれたが、リウドルフの子オットー1世が嗣子なく982年に死去すると、オットー2世は、コンラディン家のコンラート1世をシュヴァーベン大公に任じ[9]、以降、コンラディン家がシュヴァーベン大公位を世襲した。コンラート1世の出自ははっきりしないが、一説にはロートリンゲン公ゲープハルト2世の子ヴェッテラウ伯ウードの子とされる[10]。1012年、ヘルマン3世が嗣子なく没し、シュヴァーベン公系コンラディン家は断絶した。シュヴァーベン公位は、ヘルマン3世の姉妹ギーゼラと結婚したバーベンベルク家のエルンスト1世(オーストリア辺境伯レオポルト1世の子)が継いだ[11]。ギーゼラはエルンスト1世の死後、後に神聖ローマ皇帝となるザーリアー朝のコンラート2世と結婚し、ハインリヒ3世を産んだ[11]。
ゲープハルト1世 ラーンガウ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウード2世 ラーンガウ伯 | ユーディト (オセール伯コンラート1世娘) (古ヴェルフ家) | ベレンガル ヘッセンガウ伯 | ベルトルフ トリーア大司教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
グリスムート (東フランク王アルヌルフ娘) | 大コンラート 上ラーンガウ伯 | エーバーハルト (?-902) 下ラーンガウ伯 | ヴィルトルーデ (ヴォルムスガウ伯ヴェルナー4世娘) | ゲープハルト2世 ロートリンゲン公 | イダ | ルドルフ ヴュルツブルク司教 | オーダ(ウータ) (873-903) =東フランク王アルヌルフ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
コンラート1世 | エーバーハルト3世 | オットー 上ラーンガウ伯 | コンラート (短軀) (885/90-948) 下ラーンガウ伯 | エーバーハルト (?-966) 下ラーンガウ伯 | ウード ヴェッテラウ伯 上ラーンガウ伯 | クニグンデ (?-c.943) (ヴェルマンドワ伯エルベール1世娘) | ヘルマン1世 | レゲリンダ | ブルヒャルト2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲープハルト | ウード シュトラスブルク司教 | ヘリベルト ヴェッテラウ伯 グライベルク伯 | イミツァ (イルムトルート) (ゲルデルン伯・ズトフェン伯メギンゴーズ娘) | リウドルフ (皇帝オットー1世子) | イダ | ブルヒャルト3世 | ヘートヴィヒ (バイエルン公ハインリヒ1世娘) | ヒヒャ =ヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世 | ベルタ 1=ブルグント王ルドルフ2世 2=イタリア王ウーゴ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イルムガルト (ヴェルダン伯ゴットフリート1世娘) | オットー・フォン・ハンマーシュタイン ヴェッテラウ伯 ズトフェン伯 | イルムトルート =モーゼルガウ伯フリードリヒ | ゲルベルガ =ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト | ユーディト (アダルベルト・フォン・マルヒタール娘) | コンラート1世 | リヒリント | オットー1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マティルデ | ルドルフ ズトフェン伯 (エッツォ家) | ゲルベルガ (ブルグント王コンラート娘) | ヘルマン2世 | イタ =アルトドルフ伯ルドルフ2世(ヴェルフ家) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘルマン3世 | エルンスト1世 (オーストリア辺境伯レオポルト1世子) | ギーゼラ | コンラート2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルンスト2世 | ヘルマン4世 | ハインリヒ3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ザーリアー家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||