サイド・ナズルル・イスラム

Syed Nazrul Islam
সৈয়দ নজরুল ইসলাম
第2代 バングラデシュ産業大臣
任期
1972年1月13日 – 1975年1月26日
大統領アブ・サイード・チョードリー
シェイク・ムジブル・ラフマン
首相シェイク・ムジブル・ラフマン
前任者ムハンマド・マンスール・アリ
後任者アブル・ハスナット・ムハンマド・カマルザマン
初代バングラデシュ副大統領
任期
1971年4月17日 – 1972年1月12日
大統領シェイク・ムジブル・ラフマン
首相タジュディン・アフマド
前任者創設
任期
1975年1月25日 – 1975年8月15日
大統領シェイク・ムジブル・ラフマン
首相ムハンマド・マンスール・アリ
後任者1977年に制度復活: アブドゥス・サタール
個人情報
生誕1925年
イギリス領インド帝国ベンガル保護領キショレガンジ、ジャショダル、ダンバラ
(現在のバングラデシュの旗 バングラデシュ)
死没1975年11月3日
バングラデシュの旗 バングラデシュ ダッカ
政党バングラデシュ・クリシャク・スラミク・アワミ連盟 (1975年)
協力政党全インド・ムスリム連盟 (1949年以前)
アワミ連盟 (1949年–1975年)
子供Sayed Ashraful Islam, Syeda Zakia Noor Lipi, Syed Monzorul Islam, Syed Shoriful Islam, Syed Shafayet Islam, Syeda Rafia Noor.
出身校ダッカ大学

サイド・ナズルル・イスラム(Syed Nazrul Islam、ベンガル語: সৈয়দ নজরুল ইসলাম1925年 - 1975年11月3日)は、バングラデシュの政治家、アワミ連盟の指導者。バングラデシュ独立戦争においては、バングラデシュ臨時政府副大統領と宣言された。彼は、シェイク・ムジブル・ラフマンの不在時には、大統領代行を務めた[1]

生い立ち

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サイド・ナズルル・イスラムは、1925年に、ベンガル保護領英語版キショレガンジ英語版(当時のマイメンシン県)ジャショダル・ユニオン (Jashodal Union) のビル・ダンパラ (Bir Dampara) 村で、ベンガル人ムスリム英語版サイイドの家柄に生まれた[2]ダッカ大学で歴史と法学の学位を取得したが、在学中はムスリム連盟の学生指導者として活動した。サイドは、大学のクリケットホッケーのチームで主将を務め、パキスタン運動英語版に参加した。1949年にはパキスタンの公務員となったが、1951年に退職して、マイメンシンのアナンドモハン・カレッジ (Anandmohan College) の歴史学教授となり、同地で法律家としても活動した[3]

政界

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サイド・ナズルルの政治経歴は、1952年アワミ・ムスリム連盟に参加し、ベンガル語国語化運動に加わったところから始まったが、これによって彼はパキスタン警察に逮捕された。やがて、いくつもの地方や中央の党の要職を経て、党首シェイク・ムジブルの側近となった。6項目要求運動 (the Six Point Demand movement) の際には、投獄された[4]1970年にはパキスタン国民議会の議員に選出され、短期間ながら多数派の指導者代行も務めた。1971年3月25日にムジブルがパキスタン軍によって逮捕されると、サイドは、他の党幹部たちとともにムジブナガル英語版へ逃れバングラデシュの独立を宣言した[5]バングラデシュの大統領にはムジブルが選ばれたが、サイドが大統領代行に選ばれ、タジュディン・アフマド英語版が首相となった。サイドは、ナショナリズムの大義を主導し、ムクティ・バヒニ英語版のゲリラ活動と連携し、インドをはじめ各国の支持を獲得した[3]

バングラデシュの独立後、サイドは産業大臣に任命され、また、議会の副代表、憲法委員会委員となった。1975年、ムジブルが他の政党の活動を禁止して、大統領として全権を掌握した際には、サイドはアワミ連盟から改称したバングラデシュ・クリシャク・スラミク・アワミ連盟英語版 (BAKSAL) の副議長に任命された[3]

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1975年8月15日ムジブル・ラーマンの暗殺英語版を受け、サイドは、タジュディン・アフマドアブル・ハスナット・ムハンマド・カマルザマン英語版ムハンマド・マンスール・アリ英語版ら、ムジブルに忠実な者たちととも逃亡し身を潜めたが、結局は新大統領カンデカル・モシュタク・アハメド英語版の政権によって逮捕された。彼ら4人の指導者たちはダッカ中央刑務所英語版に投獄され、11月3日に、仔細不明のミステリアスな状況の下で暗殺された。この日はバングラデシュでは「Jail Killing Day」として毎年記念されるようになっている[6]。キスマット・ハシェム大尉(解任)がこの件で終身刑となった。彼は心筋梗塞のため、カナダで死去した[7]

遺されたもの

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キショレガンジにある国営のシャヒド・サイド・ナズルル・イスラム医科大学英語版の名称は、彼を記念したものである[8]サイド・アシュラフル・イスラム英語版は、サイド・ナズルル・イスラムの息子である[9]

脚注

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  1. ^ “Documents between India and Bangladesh”. The Daily Star. http://www.thedailystar.net/top-news/documents-between-india-and-bangladesh-92683 21 June 2015閲覧。 
  2. ^ “Remembering the Four Leaders”. The Daily Star. http://archive.thedailystar.net/beta2/news/remembering-the-four-leaders/ 21 June 2015閲覧。 
  3. ^ a b c Islam, Sirajul; Miah, Sajahan; Khanam, Mahfuza; Ahmed, Sabbir, eds. (2012). "Islam, Syed Nazrul". Banglapedia: the National Encyclopedia of Bangladesh (Online ed.). Dhaka, Bangladesh: Banglapedia Trust, Asiatic Society of Bangladesh. ISBN 984-32-0576-6. OCLC 52727562. Retrieved 19 November 2021.
  4. ^ Ahsan, Syed Badrul. “Recalling Six Points”. The Daily Star. http://archive.thedailystar.net/newDesign/news-details.php?nid=237295 21 June 2015閲覧。 
  5. ^ Palma, Porimol. “On the road to freedom of Bangladesh”. The Daily Star. http://www.thedailystar.net/backpage/the-road-freedom-77714 21 June 2015閲覧。 
  6. ^ “Remembering the four national leaders on Jail Killing Day”. bdnews24.com. http://bdnews24.com/bangladesh/2014/11/03/remembering-the-four-national-leaders-on-jail-killing-day 21 June 2015閲覧。 
  7. ^ “Jail killing convict Kismat Hashem dies in Canada”. The Daily Star. http://www.thedailystar.net/country/jail-killing-convict-kismat-hasem-dies-canada-73937 21 June 2015閲覧。 
  8. ^ “Medical college after Syed Nazrul Islam to be set up at Kishoreganj”. The Financial Express (Dhaka). http://www.thefinancialexpress-bd.com/old/more.php?news_id=138249&date=2012-07-28 21 June 2015閲覧。 
  9. ^ “Sheikh Hasina fires trusted Syed Ashraful as LGRD minister”. bdnews24.com. http://bdnews24.com/bangladesh/2015/07/09/sheikh-hasina-fires-trusted-syed-ashraful-as-lgrd-minister 14 April 2016閲覧。 
公職
先代
ムジブル・ラフマン
バングラデシュの大統領
代行

1971–1972
次代
アブ・サイード・チョードリー
先代
(新設)
バングラデシュの副大統領
1971–1972
次代
アブドゥス・サタール英語版