サザン・パシフィック鉄道 (Southern Pacific Railroad) | |
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サザン・パシフィック鉄道路線図 | |
報告記号 | SP |
路線範囲 | アリゾナ州・アーカンソー州・カリフォルニア州・コロラド州・イリノイ州・カンザス州・ルイジアナ州・ミズーリ州・ネバダ州・ニューメキシコ州・オクラホマ州・オレゴン州・テネシー州・テキサス州・ユタ州 |
運行 | 1865年–1996年 |
後継 | ユニオン・パシフィック鉄道 |
軌間 | 1,435 ミリメートルmm(標準軌)、一部支線に3 フィート(910 mm)軌間あり |
本社 | カリフォルニア州サンフランシスコ |
サザン・パシフィック鉄道(サザン・パシフィックてつどう、英語: Southern Pacific Railroad、報告記号はSP)は、かつてアメリカ合衆国南部に存在した鉄道会社である。
初期には1865年から1885年までサザン・パシフィック鉄道という会社名で、1885年から1969年まではサザン・パシフィック・カンパニー (Southern Pacific Company)、それ以降はサザン・パシフィック・トランスポーテーション・カンパニー (Southern Pacific Transportation Company) であったが、通常は単純にサザン・パシフィック鉄道と呼ばれている。サザン・パシフィック鉄道は1865年に土地所有会社として設立され、セントラル・パシフィック鉄道の一部を築いた。1900年までにサザン・パシフィック鉄道はテキサス・アンド・ニューオーリンズ鉄道 (Texas and New Orleans Railroad) やモーガンズ・ルイジアナ・アンド・テキサス鉄道 (Morgan's Louisiana and Texas Railroad) など、多くの小さな会社を連合した大鉄道会社へと成長し、ニューオーリンズからテキサス州を通りエルパソへ、ニューメキシコ州とツーソンを通ってロサンゼルスへ、サンフランシスコやサクラメントなどカリフォルニア州の大半から、セントラル・パシフィック鉄道を吸収してネバダ州を通じてユタ州のオグデンへ、さらにオレゴン州を通ってポートランドまで伸びていた。
サザン・パシフィック鉄道は沿線に目立った社会的影響を残した。サザン・パシフィック鉄道により繁栄した町がいくつもあり、またサザン・パシフィック鉄道が多くの病院を設立し、なかでもサンフランシスコとツーソンに設置していた。
サザン・パシフィック鉄道の鉄道総延長は年によって大きく異なっている。1929年には、自社所有の路線だけで13,848 マイル(22,286 km)であった。デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道と合併する以前は、サザン・パシフィック鉄道の総延長はあまり変わらず12,912 マイル(20,780 km)であった。路線長の減少は主に支線の廃止によっている。しかし子会社のセントルイス・サウスウェスタン鉄道 (St. Louis Southwestern Railway) を合わせると、サザン・パシフィック鉄道の路線長は15,092 マイル(24,288 km)ほどであった。これは、セントルイス・サウスウェスタン鉄道がゴールデン・ステート・ルートを買収したことによってほぼ規模が倍になり、2,180 マイル(3,510 km)へ増加したためである。リオグランデ・インダストリーズ (Rio Grande Industries) によるサザンパシフィック鉄道の買収に加えて、シカゴからセントルイスまでのSPCSL社の路線を加えて、合計したデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道、サザン・パシフィック鉄道、セントルイス・サウスウェスタン鉄道の距離は17,340 マイル(27,910 km)へ成長した。セントルイス・サウスウェスタン鉄道がサザン・パシフィック鉄道のもっともよく知られた子会社であるが、サザン・パシフィック鉄道は他にも328 マイル(528 km)のノースウェスタン・パシフィック鉄道 (Northwestern Pacific Railroad)や1,331 マイル(2,142 km)のサザン・パシフィック・レールロード・カンパニー・オブ・メキシコ (Southern Pacific Railroad Company of Mexico)、多くの狭軌の鉄道を所有していた。
1988年8月9日、州際通商委員会は、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道を所有していた会社であるリオグランデ・インダストリーズによるサザン・パシフィック鉄道の買収を承認した。リオグランデ・インダストリーズは、1988年10月13日に公式にサザン・パシフィック鉄道を取得した。購入後も、傘下の鉄道網は鉄道産業内部や顧客からのブランド認知度のためにサザン・パシフィック鉄道の名前を維持した。その後、数年にわたる経営問題の後にユニオン・パシフィック鉄道に1996年に買収された。またサザン・パシフィック鉄道は、しばしばアメリカ合衆国憲法下での企業の権利を確立したと解釈される、1886年の合衆国最高裁判所での有名な訴訟、サンタクララ郡対サザン・パシフィック鉄道事件 (Santa Clara County v. Southern Pacific Railroad) の被告となったことでも知られる。
無政府主義者が1907年の死者を伴う事故を起こしたと非難されている。カリフォルニア州グレンデールの西で、1907年5月22日にロサンゼルス行き「コースト・ライン・リミテッド」が脱線した。伝えられるところによれば、客車が築堤を転落した。少なくとも2人が死亡し、多くが負傷した。その当時のパサデナ・スター・ニュースは、「この恐るべき行為は悪魔のような正確さで計画されていた」と報じた。線路から犬釘が引き抜かれ、レール端の下にフックが差し込まれていたといわれる。
パサデナ・スター・ニュースの報道範囲は広範囲に渡っており、その論調は事故の背景にある犯罪的な要素を非難した。報道のタイトルは「悪魔の化身」とされ、「専門的にいえば、グレンデール近郊での恐るべき犯行に及んだ者は無政府主義者ではないかもしれない。しかし、彼らが動機のある、正気の人間であるならば、それは無政府主義者と周りに判断されるような人である。この典型的な無政府主義者が、鉄道をテロ攻撃すべきだと着想したなら、旅客列車を攻撃して何百人もの多数を殺傷することも躊躇わないであろう」と書いた。
数週間後、カリフォルニア州サンタクララでのサザン・パシフィック鉄道の列車に対する脱線妨害工作は、線路上に積み上げられた枕木を発見されて失敗に終わった。1907年6月1日早朝、業務用列車の乗務員がバーバンク近郊で、何者かが列車を脱線させる目的で鉄板を分岐器に差し込んでいるのを見つけた。
他の多くの鉄道会社と同様に、20世紀を通じてサザン・パシフィック鉄道はほとんどの蒸気機関車を黒く塗っていたが、1930年代から視認性のために機関車の煙室前部をほとんど白に見えるライトシルバー、側面を黒で塗装するようになった。
機関車が復元されるにつれて、パシフィック(車軸配置4-6-2)の機関車のボイラーは、ダークグリーンに塗られていたことを示す証拠が見つかるようになった。またカームバッハ出版2007年の「スティーム・グローリー2」(Steam Glory 2) という本では「サザン・パシフィック鉄道の塗装された車両群」(Southern Pacific's Painted Ladies) という記事があり、1940年代から1950年代に掛けてのカラー写真で、通常旅客ターミナルに配置されていた多くの車軸配置0-6-0の入換機関車が、運転台の屋根と扉を赤、煙室の前と側面を青白いシルバー、ボイラーをダークグリーン、黒い運転台に多色のサザン・パシフィック鉄道の紋章、シリンダーカバーを緑、細かい部品に色差しがなされた塗装になっていたことを示している。少なくとも、こうした塗装がなされた旅客用機関車が存在していたか、少なくともダークグリーンのボイラーの機関車があったと思われる。記事によれば、こうした塗装はしばらくの間続けられたもので、イベントに際して用いられた特別塗装ではなかった。
急行旅客機関車の中には、その牽引する列車名に「デイライト」という言葉が入っていたことから、デイライト塗装と呼ばれる色になっていたものがあった。この塗装はテンダーに適用されており、明るいほとんどオレンジ色に近い赤が上部と下部の3分の1に塗られ、中央の3分の1が明るいオレンジであった。これらの色の間に幅の狭い白い帯が巻かれていた。機関車までこうした色が伸びているものもあった。もっとも有名なデイライト塗装の機関車はGS-4形であった。デイライト塗装の機関車が牽引した有名な列車は「コースト・デイライト」や「サンセット・リミテッド」がある。
サザン・パシフィック鉄道は独特のキャブ・フォワード型蒸気機関車を運用していたことで知られる。通常の蒸気機関車とは逆向きに運転台(キャブ)を前側(フォワード)にして走るように設計された機関車で、煙室の側にテンダー[注釈 1]を連結し、さらにその後ろに客車や貨車を連結した。サザン・パシフィック鉄道では山岳地帯に数多くのスノーシェッドを設置しており、天井に当たった煙が運転台に吹き返してきて機関士がほとんど窒息することが度々あった。そのため、多くの機関士が機関車を逆向きに連結してテンダーを先頭にした列車を走らせるようになったが、視界が悪く高速運行にも支障があった。そこでサザン・パシフィック鉄道の依頼を受けてボールドウィン・ロコモティブ・ワークスが製造したのが、一連のキャブ・フォワード型の機関車である。
いずれも駆動装置を片側2基ずつ備えた車軸配置2-8-8-2(先輪1軸、動輪4軸・4軸、従輪1軸)の「MC型」(MC-2, 4, 6 の各型式と、元は前煙室型であったがキャブ・フォワード型に改装され「MC-2型」に編入された「MC-1型」の、計49輌。MC-3,5の両型式は欠番。1936年までにスクラップになった「MC-2型」の2輌以外はさらなる改装を受けてAC-1型(元MC-1,2), 2型(元MC-4), 3型(元MC-6)の各型式に改編された。)と、4-8-8-2の「AC型」(AC-4型-8型, 10型-12型の、計195輌。ライマ製・車軸配置2-8-8-4のMC-9型は前煙室型なので除外[注釈 2])。の、合計234輌が製造された。北アメリカでキャブ・フォワード型を発注した鉄道会社は他になく、サザン・パシフィック鉄道の独特な特徴となった。 最後に製造された「MC-12型」4294号機がサクラメントにあるカリフォルニア州鉄道博物館に保存されている。
ディーゼル機関車の使用が始まった初期には、ディーゼル機関車も黒に塗装されていた。操車場の入換機関車は視認性のために斜めのオレンジの帯を車端に塗装しており、この塗装にはタイガー・ストライプという名前が付いた。本線用貨物機関車は一般に全体が黒で赤い帯が車体の下部にあり、銀とオレンジの翼状の塗装が車端に入っていた。"SOUTHERN PACIFIC"の文字が白のセリフ書体で入っていた。鉄道ファンはこの塗装をブラック・ウィドウと呼んでいる。一時的な塗装である、全体を黒に塗ってオレンジの翼状の車端塗装をしたものは、ハロウィーンと呼ばれていた。この塗装をした機関車は非常に少なく、写真もほとんど残っていない。
多くの旅客用機関車は初期には上述したデイライトと同じ塗装になっていた。しかし、シカゴ・ロックアイランド・アンド・パシフィック鉄道 (Chicago, Rock Island and Pacific Railroad) と共同で運行していた、シカゴとロサンゼルスを結ぶゴールデン・ステートで用いるために、上部を赤、下部を銀で塗装した機関車があった。また、サンセット・リミテッドやその他のテキサス州へ走る列車には銀色に上部を狭い赤の帯にしたものが用いられていた。1959年にサザン・パシフィック鉄道は塗装パターンを標準化し、ダークグレーに赤い翼状の車端塗装となった。文字は白で入っていた。
サザン・パシフィック・サンタフェ鉄道を形成する合併が却下された1980年代に半ばの時期には、フィルムの箱の色から「コダクローム」と呼ばれる塗装がサザン・パシフィック鉄道の多くの機関車に施されていた。合併が州際通商委員会によって却下された時、この塗装はすぐには塗り戻されず、サザン・パシフィック鉄道が独立した会社でなくなるときまでサザン・パシフィック・サンタフェ鉄道の略称であるSPSFの大きな文字とともに残ったものもあって、「そんなに早く塗るべきではない」(Shouldn't Paint So Fast) の略であるなどと言われるようになった。州際通商委員会の決定によって、サザン・パシフィック鉄道は独立したままの荒廃した状態に残され、機関車はすぐには塗り戻されなかったが、何年も延期された保守作業がやっと行われる際にブラッディ・ノーズ塗装に戻されるものもあった。デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道のオーナー、フィリップ・アンシュッツによる1988年のサザン・パシフィック鉄道の買収後、機関車の脇の文字は塗装が戻される際に元のサザン・パシフィック鉄道のセリフ書体によるものから、リオグランデ鉄道の「スピード・レタリング」という書体に変更された。アンシュッツは、サザン・パシフィック鉄道の名前の方がより広く認識されていると考え、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道の名前は残らなかった。
サザン・パシフィック鉄道のロード・スイッチャーは、塗装以外にいくつかの特徴で鉄道ファンによく知られていた。これらの機関車にはしばしば凝った照明設備が搭載されており、フロント・リアの両方に大きな赤いマーズライト (Mars Light) を緊急用の信号として搭載し、また2つのライトを対にしたシールドビーム前照灯を、1対を運転台の上の番号ボードの間に、もう1対を機関車前端のマーズライトの下に設置していた。サザン・パシフィック鉄道は1970年代から運転台の空調を全ての新しい機関車で採用し始め、運転台上部に取り付けられた空調室外機がとても目立つものであった。またサザン・パシフィック鉄道は、主にドナー峠のルートで冬期に激しい雪が降ることがあることから、ロード・スイッチャーの排障器にとても大きなスノープラウを取り付けていた。サザン・パシフィック鉄道の多くのロード・スイッチャーは、西部の州ではとても珍しい和音を鳴らすネイサン-エアチャイム (Nathan-AirChime) のM3またはM5の警笛を装備していた。
サザン・パシフィック鉄道とその子会社のセントルイス・サウスウェスタン鉄道は、EMD SD45T-2形ディーゼル機関車 (EMD SD45T-2) 、通称「トンネルモーター」の唯一の運用者であった。これは標準構成のEMD SD45形ディーゼル機関車 (EMD SD45) ではサザン・パシフィック鉄道の広範囲に渡ってスノーシェッドやトンネルが続くカスケード峠とドナー峠の路線で運用されている時に、十分な冷却用空気をラジエターに取り込むことができなかったために必要とされていた。標準的なラジエターの構成では、車体の上部と側面に設置されたラジエターを通じて空気を吸い込むファンが長いフードの上部に取り付けられているが、このトンネルモーターではエアインテイクが車体の通路の高さに設置されている。トンネルやスノーシェッドの中では、重連運転の先頭側の機関車から吐き出された熱い排気ガスがトンネルやスノーシェッドの天井付近に集まり、2両目の機関車のラジエターに吸い込まれてしまい、オーバーヒートを起こすことにつながっていた。サザン・パシフィック鉄道はEMD SD40T-2形ディーゼル機関車も運用しており、これはデンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道も同様であった。 他の大多数の鉄道と異なり、1967年までサザン・パシフィック鉄道では機関車に取り付けられたナンバーボードを機関車の番号を表示するために用いるのではなく、列車番号を表示するために用いていた。後に他の鉄道の標準のやり方を採用したが、サンフランシスコとサンノゼを結ぶ通勤列車(現:カルトレイン)に関しては列車を待っている旅客の利便性のために列車番号の表示を例外として続けていた。他に1960年代末期までナンバーボードを列車番号表示に用いていた主要な鉄道会社としては、サザン・パシフィック鉄道とともに大陸横断鉄道を運営していたユニオン・パシフィック鉄道がある。
サザン・パシフィック鉄道の会社としての最後の時期になるにつれて、その機関車がとても汚くなっていったことが知られている。厳しい運用に用いられた機関車は、雨が降ったときにしか洗われなかったと観察する鉄道ファンもいた。
ユニオン・パシフィック鉄道は、古い塗装パターンを再現した「ヘリテイジシリーズ」のEMD SD70シリーズディーゼル機関車を運用しているが、その6番目で最後となるユニオン・パシフィック鉄道1996号機関車を公開し、その塗装パターンはデイライトとブラックウィドウパターンであった。
1971年5月1日にアムトラックがアメリカでの長距離旅客列車の運行を引き継ぐまで、サザン・パシフィック鉄道は以下のような愛称付きの旅客列車を運行していた。太字で示されている列車名は、今もなおアムトラックが運行している。
これらの長距離列車のほか、ギャラリーカーなどを使用してサンフランシスコ近郊地区の通勤列車の運行も行っていた。これは現在のカルトレインの前身である。
多くのサザン・パシフィック鉄道の機関車が今でもユニオン・パシフィック鉄道などで営業運行についている。また多くの古い特別な機関車が公園や博物館などに寄贈され、あるいは観光用鉄道で運行を続けている。ユニオン・パシフィック鉄道で用いられている機関車の多くは、サザン・パシフィック鉄道のロゴをユニオン・パシフィック鉄道のロゴで書き換えられ、古い番号をユニオン・パシフィック鉄道の番号に直されて塗りなおされたが、サザン・パシフィック鉄道の「ブラッディ・ノーズ」塗装のままに残されている機関車もある。有名な保存車両としては以下のようなものがある。
英語版のList of preserved Southern Pacific Railroad rolling stock)も参照。
セントラル・パシフィック鉄道とその後継のサザン・パシフィック鉄道は、オークランドとサンフランシスコを水上で結ぶ鉄道連絡船を運航していた。この目的で、巨大なオークランドロングワーフ (Oakland Long Wharf) が1870年代にサンフランシスコ湾へ張り出して建設され、地域交通にも長距離交通にも利用されていた。当初はセントラル・パシフィック鉄道は、その北部の鉄道路線を南部・東部からの路線と結びつけるために既存のフェリー航路を取得した。1860年代末になると、会社はオークランドの海岸の土地のほとんど全てを買い占めてしまい、後にオスカー・ルイスはこれを「水際の壁」と表現した。これにより町の運命は完全に会社の手に握られることになった。競合するフェリー会社や造船会社は無慈悲に事業を追い出され、駅馬車の路線でさえ会社からの注意を惹き付けることになった。
1930年までに、サザン・パシフィック鉄道は世界最大のフェリー船隊を所有しており、これは他の鉄道会社の活動により子会社化されていたが、43隻のフェリーで毎年4000万人の旅客と6000万台の車両を輸送していた。しかしサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジが1936年に開通すると緩やかにフェリー需要の減少が始まり、1951年には6隻しか営業を続けていなかった。サザン・パシフィック鉄道のフェリー事業は1958年に廃止された。