ザイン=アルテンキルヒェン伯爵領(Grafschaft Sayn-Altenkirchen)は、神聖ローマ帝国の帝国直属身分(Reichsunmittelbarkeit)の領邦。現在のドイツ・ラインラント=プファルツ州のヴェスターヴァルト地方(Westerwald)に存在した。1636年にザイン伯爵領の分割相続により成立した。主都は12世紀よりザイン伯爵領に属していたアルテンキルヒェンであった。
1606年にザイン伯爵家の家系が途絶えると、傍系のザイン=ヴィトゲンシュタイン伯爵家から継嗣が迎えられ、ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン家(Sayn-Wittgenstein-Sayn)を称した。しかし同家の男子相続者も1636年には絶えた。最後の伯爵であったルートヴィヒ(在位1632年 - 1636年)の2人の姉妹、エルネスティーネ(1626年 - 1661年)とヨハネッテ(1632年 - 1701年)が、1652年にザイン伯爵領を分割相続した。前者はザイン=ハヒェンブルク伯爵領を、後者はザイン=アルテンキルヒェン伯爵領をそれぞれ受け取った。
ヨハネッテはヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世の息子であるヘッセン=ブラウバッハ方伯ヨハンと結婚したが子供のないまま死別し、ザクセン=アイゼナハ公ヨハン・ゲオルク1世と再婚した。アルテンキルヒェン伯領は1764年までザクセン=アイゼナハ公爵家に属した後、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯家に受け継がれた。1791年には、アンスバッハ侯領とともにブランデンブルク=プロイセンに併合されている。
1803年2月の帝国代表者会議主要決議では、アルテンキルヒェンはナッサウ=ウジンゲン侯領にその領有が認められた。ウジンゲン侯領が1806年、ナッサウ=ヴァイルブルク侯領と合邦してナッサウ公国を形成するとともに、アルテンキルヒェンもその一部となった。
1815年のウィーン会議の決定により、ザイン=アルテンキルヒェンはプロイセン王国の統治下に入り、コブレンツ行政管区のアルテンキルヒェン郡として再編された。1946年にはラインラント=プファルツ州の一部に組み込まれた。
名前 | 開始 | 終了 | 備考 |
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ヨハネッテ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン | 1636年 | 1701年 | ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン伯ルートヴィヒの妹 |
ザクセン=アイゼナハ公ヨハン・ヴィルヘルム | 1701年 | 1729年 | ヨハネッテの次男 |
ザクセン=アイゼナハ公ヴィルヘルム・ハインリヒ | 1729年 | 1741年 | ヨハン・ヴィルヘルムの長男 |
ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯カール・ヴィルヘルム・フリードリヒ | 1741年 | 1757年 | ヨハネッテの曾孫 |
ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯カール・アレクサンダー | 1757年 | 1791年 | カール・ヴィルヘルム・フリードリヒの長男 |