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1926年 - 1945年 | → → |
(国旗) | (大管区章) |
公用語 | ドイツ語 | ||||||||||
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首都 | ドレスデン | ||||||||||
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通貨 | ライヒスマルク(ℛℳ) | ||||||||||
現在 | ドイツ |
ザクセン大管区(ドイツ語: Gau Sachsen)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の設置した大管区の一つである。
ザクセン自由州におけるナチ党の初期の方面指導者は、1921年から1923年までフリッツ・ティットマンであった[1]。ナチ党再結党後の1925年にはドレスデン地域にアントン・ゴース率いる東ザクセン大管区が設置されたが、1926年1月31日にゴースは解任された[2]。マルティン・ムッチュマンは1925年以来、事実上の指導者となっていた為、その後任となった。1927年1月1日にはカール・フリッチュが副大管区指導者となった。尚、ザクセン大管区が設置されたのは1926年7月からである[3]。
1933年5月5日、ムッチュマンはザクセン自由州の国家代理官となり、ムッチュマンの抗争相手であるマンフレート・フォン・キリンガーは1934年のレーム事件まで州政府の内務大臣、首相を務めた。1935年2月、ムッチュマンはレーム事件後に左遷されたキリンガーの地位を引き継いだ。1933年以前の大管区本部はプラウエン、その後ドレスデンのビュルガーヴィーゼ24番地に設置された[4][5]。大管区には5,231,739人の住民と27の管区に約235,000人の党員を有していた。都市設計家パウル・ヴォルフの計画では、巨大な大管区フォルム(公共広場)が建設、拡張される予定であった[6]。この計画は第二次世界大戦の開戦により中止された。1933年には早くも退廃芸術展の最初の展示会が開催された。
ムッチュマンは1939年に全国防衛委員となり、ピルナ・ゾネンシュタイン絶滅収容所に於けるT4作戦の実施に責任を負っていた。彼はまた、大戦末期に国民突撃隊を率いて、何千人もの青少年を躊躇うことなく戦地に送り込んだ。1945年2月のドレスデン爆撃の後、大管区本部はドレスデン近郊のロックヴィッツグルンドにある臨時司令所に移された。1945年3月、彼のもとに元大管区指導者でザクセン突撃隊指導者であるヴェルナー・フォーゲルサングが新たな副官として配属された。