ザ・ドリフターズ | |
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基本情報 | |
別名 | いかりや長介とザ・ドリフターズ |
出身地 | 日本 |
ジャンル | |
活動期間 | 1956年 - |
レーベル |
東芝レコード (東芝音楽工業→東芝EMI) ワーナー・ブラザース・パイオニア[注釈 1] サウンズ・マーケッティング・システム EXPRESS/EMI RECORDS (EMIミュージック・ジャパン→ユニバーサル ミュージック ジャパン) 渡辺音楽出版 |
事務所 | イザワオフィス |
メンバー | |
旧メンバー |
ザ・ドリフターズ The Drifters | |
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メンバー |
加藤茶 高木ブー いかりや長介(故人) 荒井注(脱退[1]・故人) 仲本工事(故人) 志村けん(故人) |
別名 | ドリフ |
結成年 | 1956年[注釈 2] |
事務所 | 渡辺プロダクション→イザワオフィス[注釈 3] |
活動時期 | 1956年 - |
出身 | 音楽バンド |
現在の活動状況 | 不定期・再放送 |
芸種 | 喜劇・コント |
ネタ作成者 |
いかりや長介 加藤茶 志村けん |
過去の代表番組 |
8時だョ!全員集合 ドリフ大爆笑 ほか (その他のザ・ドリフターズのレギュラー番組を参照) |
ザ・ドリフターズ(英: The Drifters)は、1956年(昭和31年)に結成された日本の音楽バンドおよびコントグループである。1969年頃まで主にバンドとして[2]、それ以降は主にコントグループとして活動。通称はドリフ。1960年代後期から1980年代前期を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組に出演し、国民的人気を誇った。1990年代以降は個人での活動が増えていった。
1956年にマウンテンボーイズ(1952年 - 1955年)と東京ウエスタンボーイズが合併して結成されたロカビリーの音楽バンドサンズ・オブ・ドリフターズが前身。井上ひろしとドリフターズの改名を経て、メンバーの大量脱退による解散危機に見舞われ、 新メンバーを拡充後、桜井輝夫とドリフターズに改名してロックンロールからコミックバンドへと転向していく。碇矢長一とザ・ドリフターズの改名を経て、再びメンバーの大量脱退による解散危機に見舞われ、新メンバーを拡充後、1964年9月、ザ・ドリフターズ(別名いかりや長介とザ・ドリフターズ)に改名してコントグループへと転向していった[3]。
一般的には、この1964年をザ・ドリフターズの結成年としている[4][5][6]。 ハナ肇とクレージーキャッツ(1955年 - 2023年)の後輩[7][8]。
いかりや長介がリーダーに就任した当時は前リーダーの桜井輝夫が個人オーナーとしてメンバーの面倒をみる形をとっていたが、元メンバーの小野ヤスシら4人がドンキーカルテットを結成して脱退、代わって荒井注・高木ブー・石川サダオが加入して既存のメンバーのいかりや、加藤、小山威、臨時雇いながらもメンバーであった綱木文夫も含めた7人体制になった後、石川、小山が抜け、最後に仲本工事が加入しメンバーとして残った綱木を含めた6人体制の新生ドリフに切り替わった。
間もなく綱木が脱退したものの、この時は代替のメンバーを募集せずに5人構成に減らしたが、活動が安定すると桜井輝夫はザ・ドリフターズの将来を見越してすべての権利を渡辺プロダクションに譲り渡した。1974年に荒井が脱退[1]して、志村けんが後任メンバーに加入。1979年より当時のマネージャーだった井澤健(後述)が全額出資で立ち上げた「イザワオフィス」にいしだあゆみらとともに移籍した。
過去に所属していたレコード会社は東芝音楽工業(→東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン→現名称:ユニバーサル ミュージック合同会社)で、デビュー当初より在籍していた。なお、東芝音楽工業在籍中「ドリフのツーレロ節」のみ、当時渡辺プロが出資していたワーナー・ブラザース・パイオニア(→ワーナー・パイオニア→現名称:ワーナーミュージック・ジャパン)から出ている。また、「ドリフの早口ことば」及びドリフメンバーが歌唱に参加していない『全員集合』使用曲「『ヒゲ』のテーマ」「ドリフのわんダードッグ」は、渡辺プロの関連企業だったサウンズ・マーケッティング・システムから発売された。
前期バンド時代のメンバーは、当時のバンド移籍文化もあり、移り変わりが激しかった。
初期のメンバーには、坂本九や小野ヤスシらがいたが、このうち小野は新リーダーになったいかりやに反発してジャイアント吉田(元催眠カウンセラーの吉田かずお)らとともに4人で脱退し、ドンキーカルテットを結成した。その時、残ったのはいかりやと加藤と小山、綱木の4人だった。 その後、新生ドリフになってからは、1965年初頭の小山、新メンバー石川の脱退、その後に前述の綱木の脱退こそあったものの、それ以降はメンバーはほぼ固定され、常時5人の構成が取られるようになった。ただし、荒井注の活動休止宣言(実質的な脱退宣言)の際には志村けんが正式見習いとして加入し、一時的に6人構成となった。また、いかりやの著書では、すわしんじ(現:すわ親治)の活躍ぶりにより、正メンバーではないが彼を6人目のメンバーと見なしている。他に付き人は大勢在籍していたが、メンバーとして紹介されることはない。なお、いかりや没後には新メンバーを加入させず、4人構成となり、志村が他界した2020年3月以降は、加藤・高木・仲本の3人構成となり、2022年10月に仲本工事が他界してからは加藤・高木の2人構成となる。
いかりやの著書によれば、いかりやは「自分が加入した当初のドリフターズがそうだったように、荒井が志村に交代したような形でメンバーを徐々に入れ替え、自分のようにネタを創れる志村とすわを中心にした新メンバーでドリフを継続する」ことを計画していた。
新生ドリフ初期メンバーの名付け親は、当時の所属事務所・渡辺プロダクションの先輩格でドリフのメンバー達にとって憧れの存在だった「クレージーキャッツ」のリーダー・ハナ肇[9][10]。
なお、後に加入した志村は自分の父親の名前・憲司より芸名を決め、すわの芸名はいかりやにより名付けられた(各人の芸名の由来は各人の項参照)[9]。
こうした経緯から、クレージーキャッツをドリフターズの師匠格とするような記述もあるが、個人やグループを問わず、特に芸について指導を受けたわけではないのでこれは正確ではない。
「新生ドリフ」はカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけたなかにし礼の作詞と川口真のアレンジは、独自の「ドリフ・ミュージック」を作り上げた。
1966年6月30日と7月1日、ビートルズ日本公演の前座を務めた(7月2日は出演せず)[11]。僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージではなく、ビートルズと同じメインステージで演奏した(ただし、加藤のドラムセットはリンゴ・スターのものとは隔離されていた)。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。なおIN JAPAN 1966 50TH ANNIVERSARY EXTRA EDITIONによると『のっぽのサリー』が演奏されたのは開場から2曲目である。音楽之友社から出版された「POPS」1966年8月号の特集「熱狂の三十五分」のP31~によると6月30日の開場のベルは予定より5分遅れの6時35分でビートルズの到着が6時41分なのですれ違うことは可能である。またこの時のドリフの出番はTHE BEATLES IN JAPAN : 50TH ANNIVERSARY EDITIONによるとブルージーンズの後で尾藤イサオの前だが上記の特集にはこの後6時53分前後にもドリフターズ→ブルージーンズの順にステージに上がった旨が記されている為、映像には残っていないがドリフターズの出番が存在したことになる。
「新生ドリフ」以降は歌謡グループとしての活動も顕著となり、コミックソングのほか、民謡・軍歌等、日本で歌い継がれてきた曲の替え歌を多くレコードに吹き込む(ディスコグラフィーの項参照)。67年3月の「春だ若さだ、全員集合」で舞台初主演[12]。またこのころ東宝松竹日活から主演映画の話を持ち掛けられていた[13]、後に東宝松竹で主演映画を多数制作。
1970年に「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。この年の『第21回NHK紅白歌合戦』に出場が内定していたが、加藤茶の交通事故により出場を辞退した[14]。
1978年4月20日にはTBS「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」へ5人+すわしんじが出演。「ゴー・ウエスト」を唄っている。
後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったが、音楽活動は各メンバーごとに継続されており、全く音楽活動を休止した訳ではなかった。1990年代以降は、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。
2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援で出演したことは過去にもあった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となり、往年のヒットメドレーを披露した。
元々ドリフは純粋なバンドであり、お笑いとは程遠い存在だったが、桜井輝夫がリーダーになってからは、コミックの要素を音楽に取り入れるようになった。当時のドリフターズは出演の最初はメンバーが各ポジションでワンフレーズ演奏をして、いかりやの「全員集合!」の一声で全員が舞台前面に出てきてコントを始めていた。これが後のキャッチフレーズとして使われる「全員集合」の由来である。コントの中身もそれぞれの楽器を使った音楽がらみの物が多かった。そして新生ドリフになった後からは、グループの活動はお笑いが中心となっていった。
1970年代になると憧れていた先輩バンドである、「ハナ肇とクレージーキャッツ」に取って代わる形でドリフターズが人気になった。
お笑いとしては、グループを生かした色々なパターンを生み出す。特に『ドリフ大爆笑』の「もしもシリーズ」では、ボケと突っ込み以外の「呆然とするいかりや」で笑いを取るという新しいパターンを生んだ。いかりや自身は、自らのグループを「お笑いの能力は一流でない」と卑下し、新生ドリフ初期のライバルであるコント55号に対抗する意味で、アドリブ無しの徹底的に練られたストーリー作り、練習でカバーし、土曜8時戦争と呼ばれるお笑い番組の視聴率争いで、長年にわたって優位を保った。 いかりやはペーソスではなくカラッとした笑いが生命と語っている[15]。
志村が正式メンバーになる前後でチームの笑いのパターンは変化している。ドリフ再結成直後は高木ブーを中心にした笑いだったが、すぐに加藤茶を中心としたコントに変更され、のっぽ(権力者役のいかりや)、でぶ(無芸大食の高木)、めがね(風見鶏、インテリ役の仲本工事)、はげ(ふてぶてしいおじさん役の荒井)、ちび(いじめられ役の加藤)という、吹き溜まりの集団内での人間関係というチームワークで、加藤がオチを取っていた。それと同時に「加藤を中心に4人共いかりやからいじめられながらも表向きは従い、機会を見ては権力者であるいかりやに前述のキャラクターを生かしたそれぞれの方法で時には共謀して歯向かい、形勢がいかりやに戻るとその4人がそれぞれの個性をもった方法でばらばらになり、要領の悪いメンバー(加藤)だけがバレて犠牲になる」といった社会的な縮図を指摘する者もいる。時折、加藤といかりやとの権力争いの結果、リーダーの座が逆転したり始めから加藤がリーダーとなるパターンもあった。また、音楽の要素を残し、笑いに取り入れている時代でもあった。
志村が入ってからは、まともでない役のメンバー(特に志村)に、いかりやが突っ込みを入れたり振り回されるという笑いのパターンになり、イントロの高木、つかみの仲本、オチの加藤、さらに加藤のオチよりパワーアップした奇天烈な行為をする志村という各々の順番でいかりやが突っ込みを入れていった。あるいは、金田一コントのように志村の独り舞台に近いものになり、加藤を含め他の四人は脇に回ることも多くなった。しかし、荒井の脱退から志村への交代で定着するまでには2年近くもの時間がかかった。この間、志村を前面に押し出そうと、他のメンバー、特にいかりやと加藤によるサポートがあった。
その後三枚目としての仲本も強調された。一方で志村はいかりやの演出を無視してアドリブでギャグを入れることがしばしば見受けられ、リハーサルでダメ出しをされても、実行してしまうこともあった。これは、「緻密なストーリーと演出に基づいたドリフコント」を崩すこととなったが、ハプニング時には他のメンバーもそれを乗り切るためにアドリブで対処したこともあった。
撮影用ではあるが、ケーキや鶏卵、スイカや牛乳などといった食べ物を粗末にするネタ、下品なコントが多く、また「金たらい落しや一斗缶で殴るなど、子供が真似ると危ない」などという名目の内容も含めてPTAの目の仇にされたが、メンバー以外の他人の誹謗や中傷をネタにすることはなく[要出典]、かつ素人いじりをしなかった[注釈 4]。また、体を張ったギャグや音楽ネタも多い。いかりやの著書によれば、いかりやが米兵相手にコミックバンドをしていた体験からこのような芸風を後々まで引き継ぐことになったという。
日本だけでなく、台湾などでも人気がある。
他の芸能人へも影響があり、『8時だョ!全員集合』、『ドリフ大爆笑』、テレビ朝日『ドリフと女優の爆笑劇場』等の番組にゲスト出演した俳優、アイドル、歌手までもが、番組内では本来のイメージを越えた役作りやギャグをすることを、バーチャルなお笑いドラマやコント出演としてファンからも認められ、またドリフと一緒にコントをやりたいために自ら希望して演じる者も多数出てきた。そういったゲストからお笑いとしての個性を引き出され、新たな方向性や個性をも作っていった者も少なくない。また、実際に主に立ち回りながらしゃべって笑いを引き出すのはメンバーであっても、ゲストが笑いの中心であるように見せる企画力や技術もあった。
高木によるとドリフでは仲間内で、午後3時を“ドリフ時間”と呼んでいた。これは、ドリフが一日の仕事を基本的に午後3時から開始していたとのことで、他にもドリフで何かをする時は多くのことで午後3時を起点に行動することが多かったという。プライベートでメンバー同士で会う日の待ち合わせ時刻なども昔からドリフ時間で約束しており、この習慣は現在(2021年10月)も続いている[16]。
加藤、高木、仲本が「こぶ茶バンド」として一時期活動していた時期があった。
いかりや・荒井(脱退)・志村が亡くなってからは、正規メンバーは「こぶ茶バンド」メンバーのみとなり(志村が死去した2020年3月から仲本が死去した2022年10月まで)、現在存命のメンバーが揃っても「こぶ茶バンド」ではなく「ザ・ドリフターズ」として活動し「こぶ茶バンド」自体はドリフ本体に吸収された形になっている。志村死去後は「こぶ茶バンド」として活動していた形態も「ザ・ドリフターズ」として活動しており、「こぶ茶バンド」としては紹介されなくなった。
2022年には仲本が死去し、こぶ茶バンドメンバーからも物故者が出たことにより、加藤と高木の2人がドリフメンバーとして残るのみとなった。
1943年3月1日(81歳)、本名:
1933年3月8日(91歳)、本名:
1931年11月1日 - 2004年3月20日(72歳没)、本名:
1928年7月30日 - 2000年2月9日(71歳没)、本名:
1941年7月5日 - 2022年10月19日(81歳没)、本名:
1950年2月20日 - 2020年3月29日(70歳没)、本名:
元々バンドであって、コント寄りではなかったため、前期バンド時代には大御所ミュージシャンが在籍していた。
本名:
ここでは、ドリフと関係の深い番組スタッフ、プロダクションマネージャー、新生ドリフから派生したコメディアン(すわ親冶を除く)、および新生ドリフにスカウトされた経験のある芸能人を紹介する。
この時のメンバー1(1964年ごろ):碇矢、加藤、小山、綱木、高木友之助、荒井安雄、石川サダオ(後に石川春に改名)、桜井(オーナー)の8人
志村の死去後に高木と仲本は「ザ・ドリフターズの最後のメンバーが世を去ると同時に正式に終焉(解散)とする」方針を採る事にしたと発言した[88]。
1956年に結成されて以来、岸辺(または大野、もしくは岸辺・大野の2人制)・桜井・いかりや、とリーダーが代替わりしてきたが、いかりやが死去した2004年以降はリーダー制が事実上廃止され、誰がリーダーとの取り決めはない。これは、それまでのいかりやの積み上げてきた功績から、メンバー全員がいかりやを永世リーダーと考えているためである。
ただし、メンバーがテレビ番組などに出演した際、桜井リーダー時からの最古参であること、代表としてコメントを出す機会が多いこと、メンバーに物故者が出た場合は代表で弔辞を読むこと、などの理由から、加藤が事実上のリーダーとなっている。
ドリフターズ全員出演、もしくはドリフを冠するものに限る(高木の骨折やメンバーの死去などによって欠けた場合を除く)。
他に、『テレビグランドスペシャル』、『ビッグワイド60分』、『4・10月だョ!全員集合』、などの単発物や特別番組を含めると、多数存在する。
なお、インターネットテレビ(ニコニコ生放送)では2021年7月、月1回の生放送番組『もリフのじかんチャンネル 〜ももいろクローバーZ×ザ・ドリフターズ〜』が開始。同じく月1放送だった『ドリフ大爆笑』以来34年ぶりのレギュラー冠新番組となった。
この他にも67年3月と68年10月と69年10月[注釈 29]にコマスタジアムでそれぞれ春の特別公演と秋の特別公演を行っている。
年度 | 放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
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2001年 | 第52回 | 初 | ドリフのほんとにほんとにご苦労さんスペシャル[注釈 30] | 19/27 | 松田聖子 |
前述のCM出演(2000年放送)や、NHKの歌番組『第32回思い出のメロディー』でのコントと歌のコーナー出演(2001年)、同じく上記の紅白への出演、『ドリフ大爆笑』の総集編のオープニングとエンディング新収録(2003年放送)など、2000年以降に於いてほぼ一年に一度は、早期に脱退した綱木を除くメンバーが全員集合する機会や企画がとられていた。2002年のドリフ大爆笑ではいかりやが過去映像が格納されている金庫がようやく開いたから次回に期待という旨のコメントを残し、生前最後の大爆笑で特集された。2004年が結成40周年に当たり、様々な番組企画、イベントなどが事務所やテレビで予定されていたが、リーダーいかりやの死去が重なり、完全な「全員集合」は実現しなかった。
1975年3月31日に大阪の朝日放送(現・朝日放送テレビ)(ABC)と毎日放送(MBS)でテレビのネットワークが入れ替えられた際(ABCがTBS系列からNET〔現・テレビ朝日〕系列に、MBSがNET系列からTBS系列に変更)、MBSでのPRキャラクターをドリフターズが務めており、キャッチコピーも「4月から、4チャンネルだョ!全員集合」だった(「4チャンネル」はMBSのチャンネル番号)。
枚 | 発売日 | タイトル | 収録曲 | 備考 | オリコン最高位 |
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東芝音楽工業 / 東芝レコード | |||||
1st | 1968年6月10日 | ズッコケちゃん | ズッコケちゃん 作詞:なかにし礼 作曲:不詳 池すすむ採譜[注釈 31] 編曲:萩原哲晶 |
デビュー曲として発表されたが、B面の「いい湯だな」の方が大ヒットしてしまったため、「いい湯だな/ズッコケちゃん」と紹介しているサイトもある。 | 44位 |
いい湯だな (ビバノン・ロック) 作詞:永六輔 作曲:いずみたく 編曲:萩原哲晶 |
「にほんのうた」シリーズ。別バージョン・ビバノンロック。オリジナルはデューク・エイセスの楽曲である。 1997年に日本石油のコレカードのCMソングとして替え歌で歌った。これは、2000年に発売されたベストアルバム『ドリフだョ!全員集合 青盤』に収録されたため、入手可能である。なお、これが5人で歌った最後で且つ最新音源で、曲中にナレーションが入っている。 | ||||
2nd | 1969年5月1日 | ミヨちゃん | ミヨちゃん 作詞・作曲:平尾昌晃 編曲:川口真 |
オリジナルは平尾昌晃の楽曲[91]。 1995年に加藤茶が別バージョン「RAP MIYO-CHAN」を発表した。 |
11位 |
のってる音頭 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は秋田県民謡の「秋田音頭」。 アラン・リックマン主演映画『スノーケーキを君に』のなかで、シガニー・ウィーバーがこの曲に合わせ踊るシーンがある。 | ||||
3rd | 1969年11月1日 | ドリフのズンドコ節 | ドリフのズンドコ節 作詞・作曲:不詳 補作詞:なかにし礼 編曲:川口真 |
原曲は「海軍小唄」。 荒井注が脱退した後の1978年には、4番の荒井のソロパートを志村けんの声に差し替えた「志村けんバージョン」が「ゴー・ウェスト」のB面に収録されている。 |
2位 |
大変うたい込み 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は宮城県民謡の「斎太郎節」(「大漁歌い込み」)。 | ||||
4th | 1970年4月25日 | ドリフのほんとにほんとにご苦労さん | ドリフのほんとにほんとにご苦労さん 原詞:野村俊夫 替詞:なかにし礼 作曲:倉若晴生 編曲:川口真 |
原曲は「軍隊小唄」。 | 4位 |
冗談炭坑節 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は福島県民謡の「常磐炭坑節」。 | ||||
5th | 1970年11月5日 | 誰かさんと誰かさん | 誰かさんと誰かさん 作詞:なかにし礼 スコットランド民謡 編曲:川口真 |
原曲は「ライ麦畑を通り抜け」(日本では「故郷の空」として知られる)。 | 3位 |
ドリフのおこさ節 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は秋田県民謡の「おこさ節」。 | ||||
6th | 1971年5月5日 | ドリフのツンツン節 | ドリフのツンツン節 作詞:なかにし礼 作曲:不詳 編曲:川口真 |
原曲は各学校で伝承曲として歌われている「ツンツン節」。 | 18位 |
ドリフ音頭 北海盆歌より 作詞:なかにし礼 日本民謡 編曲:川口真 |
原曲は北海道民謡の「北海盆唄」。 | ||||
ワーナー・ブラザース・パイオニア いかりや長介とザ・ドリフターズ 名義 | |||||
7th | 1971年12月20日 | ドリフのツーレロ節 | ドリフのツーレロ節 作詞:なかにし礼 作曲:不詳 編曲:川口真 |
原曲は美ち奴の「シャンラン節」。 | 52位 |
ドリフのラバさん 作詞:石田一松 補作詞:なかにし礼 作曲:石田一松 編曲:川口真 |
原曲は石田一松の「酋長の娘」。 | ||||
東芝音楽工業 / 東芝レコード | |||||
8th | 1972年4月25日 | ドリフの真赤な封筒 | ドリフの真赤な封筒 作詞:永田哲夫 補作詞:なかにし礼 ハワイ民謡[注釈 32] 編曲:川口真 |
原曲はアメリカのコミックソング「オー・バイ・ジンゴ」。日本では1937年に灰田勝彦の歌唱によって「真赤な封筒」として発表され、その永田哲夫による日本語詞をなかにし礼が更にコミカルにアレンジしている。 ジャケットに「ハワイ民謡」とクレジットされているが、実際はアルバート・フォン・ティルツァー作曲である。 ハワイアンタッチのシングルヴァージョンとは別テイクが存在する。 |
32位 |
ドリフのピンポンパン 作詞:阿久悠 作曲:小林亜星 編曲:川口真 |
原曲はフジテレビで当時放送されていた子供番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』の中の楽曲「ピンポンパン体操」。 | ||||
東芝音楽工業 / 東芝レコード いかりや長介とザ・ドリフターズ 名義 | |||||
9th | 1973年6月10日 | 〜8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合 / 「にほんのうた」シリーズ"いい湯だな"より ドリフのビバノン音頭 | 〜8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合 作詞:上野冷児・松原雅彦 日本民謡 編曲:たかしまあきひこ |
21位 | |
「にほんのうた」シリーズ"いい湯だな"より ドリフのビバノン音頭 作詞:永六輔 替詞:上野冷児・松原雅彦 作曲:いずみたく 編曲:たかしまあきひこ | |||||
東芝EMI / 東芝レコード いかりや長介とザ・ドリフターズ 名義 | |||||
10th | 1976年3月20日 | ドリフのバイのバイのバイ | ドリフのバイのバイのバイ 原作詞:添田さつき 作詞:森雪之丞 外国曲 編曲:森岡賢一郎 |
原曲は「パイのパイのパイ」(東京節)。 本曲より志村けんが参加。 |
90位 |
ドリフの英語塾 作詞・作曲:森雪之丞 編曲:宮川泰 |
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東芝EMI / 東芝レコード | |||||
11th | 1976年9月5日 | 加藤茶のはじめての僕デス / 志村ケンの全員集合 東村山音頭 | 加藤茶のはじめての僕デス 作詞:関沢新一 作曲:中沢勝彦 編曲:たかしまあきひこ |
オリジナルは東京放送児童合唱団時代の宮本浩次の楽曲。 | 8位 |
志村ケンの全員集合 東村山音頭 作詞:土屋忠司 作曲:細川潤一 補作詞・補作曲:いかりや長介・志村けん |
原曲は三橋美智也と下谷二三子の「東村山音頭」。 | ||||
12th | 1978年4月20日 | ゴー・ウエスト | ゴー・ウエスト 作詞:下山啓・田村隆 作曲・編曲:たかしまあきひこ |
25位 | |
ドリフのズンドコ節 作詞・作曲:不詳 補作詞:なかにし礼 編曲:川口真 |
1969年リリースの「ドリフのズンドコ節」の志村けんバージョン(詳細は前述)。 | ||||
サウンズ・マーケッティング・システム | |||||
- | 1980年2月25日 | 「ヒゲ」のテーマ | 「ヒゲ」のテーマ (ドゥー・ミー) 作曲:K.GAMBLE & L.HUFF 編曲:たかしまあきひこ プロデュース:志村けん |
原曲はテディ・ペンダーグラスが1979年にリリースしたアルバム『Teddy』に収録されている「Do Me」。 演奏はたかしまあきひこ&エレクトリック・シェーバーズが担当。 |
5位 |
カラオケ“いい湯だな” | 「いい湯だな」のカラオケバージョン。 | ||||
13th | 1980年12月21日 | ドリフの早口ことば | ドリフの早口ことば 補作詞:いかりや長介[注釈 33] 作曲・編曲:たかしまあきひこ |
原曲は1973年にウィルソン・ピケットが発表した楽曲「Don't Knock My Love」。 『全員集合』の「ドリフ聖歌隊」でお馴染みのリズムに乗せて早口言葉を言う。 |
10位 |
カラオケドリフの“早口ことば” | 「ドリフの早口ことば」のカラオケバージョン。 | ||||
- | 1982年 | ドリフのわんダードッグ | ワンダー・ドッグ 作曲・編曲:Harry Thumann |
オリジナルはハリー・トゥマンのプロデュースユニット「Wonder Dog」の「Living on a farm」。『全員集合』では本曲が「ドリフのわんダードッグ」として流され、加藤茶と志村けんが犬のかぶり物をした上で口パクで歌った。曲の特定の場所で変顔をするのが定番となっていた。 | - |
わんダー・ドッグ・ディスコ編 | オリジナルは「Wonder Dog」の「Ruff Mix」。オリジナルのシングルでは本曲がタイトル曲(A面)で「Living on a farm」がB面となっている[92]。 |
発表年 | タイトル | 収録曲 | 備考 | ||
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東芝音楽工業 / 東芝レコード | |||||
1970年 | ドリフのほろ酔い小唄 | ドリフのほろ酔い小唄 作詞:青木正義 補作詞:山上路夫 作曲:いずみたく 編曲:萩原哲晶 |
灘の酒造メーカーの組織「甲東会」のPR用に作られたシングルで、利き酒会などでの配布用であり非売品であった。 現在では、2000年に発売されたベストアルバム『ドリフだョ!全員集合 青盤』に収録されている。 2015年からフジテレビで放送されているバラエティー番組「ダウンタウンなう」の企画「本音でハシゴ酒」では、店舗紹介など随所で本曲がBGMとして採用されている。 |
枚 | 発売日 | タイトル | 備考 |
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東芝音楽工業 / 東芝レコード[注釈 34] | |||
1st | 1969年12月 | ドリフターズ 全員集合!! | 最初の3枚のシングル両面分6曲に「会津磐梯山」「八木節」を加えた計8曲。その間にドリフによるコントが挟まる形となっている。 2008年10月22日に復刻紙ジャケット仕様のCDアルバムで再リリースされた。 |
2nd | 1971年7月 | ドリフターズ再び全員集合!! | 前作に続き、「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」以降のシングル3枚両面分の計6曲をA面に、5人のメンバーがそれぞれソロをとる5曲をB面に収録。 2008年10月22日に復刻紙ジャケット仕様のCDアルバムで再リリースされた。 |
3rd | 1971年12月 | ドリフの軍歌だよ全員集合!! | 軍歌のカバーアルバム。収録曲のうち「ズンドコ節」や「ほんとにほんとにご苦労さん」はシングル発表曲とタイトルは類似するし、シングルとアレンジは変わらないが、間奏のスキャットや合いの手等がなく、元の歌詞で歌われたコミカルさを廃した別のものである。後述のベスト盤である「赤盤」には「酋長の娘」以外の9曲のみが収録された。 2008年10月22日に復刻紙ジャケット仕様のCDアルバムで再リリースされた。 |
サウンズ・マーケッティング・システム | |||
4th | 1981年1月21日 | ドリフの早口ことば |
枚 | 発売日 | タイトル | 備考 |
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東芝EMI / 東芝レコード | |||
1st | 不明 | ザ・ドリフターズ ゴールデン・ディスク | |
2nd | 1976年11月5日 | 全員集合 ベスト・オブ・ドリフターズ | |
3rd | 1989年7月12日 | ビッグ・アーティスト・ベスト・コレクション ザ・ドリフターズ | |
4th | 1991年12月18日 | ドリフのシングルコレクション | |
5th | 2000年11月16日 | ドリフだョ!全員集合 赤盤 | シングルやLPの音源はもちろん、ソノシートの音源などをも収録し、ドリフのほとんどの曲が網羅されている。 赤盤・青盤とも、解説の最後のページに、「荒井注さんのご冥福を謹んでお祈りいたします。」と書かれている。 |
6th | ドリフだョ!全員集合 青盤 | ||
渡辺音楽出版 | |||
7th | 2004年11月25日 | ザ・ドリフターズ ゴールデン☆ベスト | |
東芝EMI / 東芝レコード | |||
8th | 2005年11月16日 | ドリフ映画ダョ!全員集合 | |
ユニバーサル ミュージック ジャパン / 渡辺音楽出版 | |||
9th | 2016年2月10日 | ザ・ドリフターズ ヒットコレクション〜ドリフだョ!なかにし礼だョ!全員集合〜 | なかにし礼が作詞を手掛けた多くの楽曲を収録したベストアルバム。 |
枚 | 発売日 | タイトル | 備考 |
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ユニバーサル ミュージック ジャパン / 渡辺音楽出版 | |||
1st | 2013年12月11日 | コンプリート・シングル・ボックス | タワーレコード及びタワーレコードオンライン限定発売。 『「ヒゲ」のテーマ』と「ドリフのわんダードッグ」は未収録。 |
楽曲 | タイアップ |
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ズッコケちゃん | 映画『ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓』挿入歌 |
ミヨちゃん | 映画『ドリフターズですよ!全員突撃』挿入歌 映画『ミヨちゃんのためなら全員集合!!』主題歌 |
ドリフのズンドコ節 | 映画『ズンドコズンドコ全員集合!!』主題歌 |
誰かさんと誰かさん | 映画『誰かさんと誰かさんが全員集合!!』主題歌 |
ドリフのツンツン節 | 映画『ツンツン節だよ全員集合!!』主題歌 |
〜8時だヨ!全員集合大特集 チョットだけヨ!全員集合 | TBS系『8時だョ!全員集合』オープニングテーマ |
「にほんのうた」シリーズ"いい湯だな"より ドリフのビバノン音頭 | TBS系『8時だョ!全員集合』エンディングテーマ |
加藤茶のはじめての僕デス | NHK『みんなのうた』より |
ゴー・ウエスト | TBS系『飛べ孫悟空』挿入歌 |
等々。
(1970年代、レコード発売時に「いかりや長介とザ・ドリフターズ」名義で暫く活動していた)
2000年代に至るまで、自伝や関係者による回顧、分析・評論・解説本が様々出版されたが、下記を除いて古本屋でも入手が難しい書籍が多い、ここではメンバーの書籍とメンバーの掲載誌(他者の評論解説本などではなく直接登場したもの)、もしくは関係者による書籍を扱う。また60年代から80年代にかけて小学館の学年別学習雑誌に幾度となく登場していた。
※各文献間で、記述の矛盾がある(例えば「高木ブーの中央大学卒業」の部分は『だめだこりゃ』では中退をしたこととなっており、大卒メンバーは荒井・仲本だけとなっているなど)。