シソワット・コサマック ស៊ីសុវត្ថិ កុសុម | |
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カンボジア王妃 | |
シソワット・コサマック(1967年11月) | |
在位 | 1955年3月2日 - 1960年4月3日 |
別称号 | 国家の象徴 |
全名 |
ស៊ីសុវត្ថិមុនីវង្ស កុសុមៈនារីរ័ត្នសេរីវឌ្ឍនា シソワット・モニウォン・コサマック・ニヤリリヤット・セレイ・ヴァータナ |
出生 |
1904年4月9日 フランス領インドシナ カンボジア王国、プノンペン |
死去 |
1975年4月27日(71歳没) 中華人民共和国、北京市 |
配偶者 | ノロドム・スラマリット |
子女 | ノロドム・シハヌーク |
家名 | シソワット家 |
父親 | シソワット・モニヴォン |
母親 | ノロドム・カンヴィマン・ノルレアク・テヴィ |
宗教 | 上座部仏教 |
シソワット・モニウォン・コサマック・ニヤリリヤット・セレイ・ヴァータナ(クメール語: ស៊ីសុវត្ថិមុនីវង្ស កុសុមៈនារីរ័ត្នសេរីវឌ្ឍនា, ラテン文字転写: Sisowath Monivong Kossamak Nearirath Serey Vathana, 1904年4月9日 - 1975年4月27日)はカンボジア王妃(在位:1955年3月3日 - 1960年4月3日)、王太后(在位:1960年4月3日 - 1975年4月27日)。
カンボジア王シソワット・モニヴォンの三女としてプノンペンで生まれた。母はノロドム・カンヴィマン・ノルレアク・テヴィ。1920年、従兄のノロドム・スラマリットと結婚し、ノロドム・シハヌークを産んだ。1941年の父王の崩御後、息子のシハヌークが国王に即位し、その下で1953年にカンボジアはフランスから完全独立した。1955年にシハヌークは政治に専念するため、スラマリットに王位を譲ったことにより、王妃となった。
スラマリットは在位5年目の1960年に崩御したが、この後シハヌークが新設の「国家元首」に就任、カンボジア王位は空位となり、王太后となったコサマックは国家の「象徴」とみなされて元首に準じる待遇を受け、公式の場ではシハヌークとコサマックの肖像画が掲げられた。シハヌークの中立政策により、カンボジアは平和を享受したが、その反米・親越的な政治姿勢に批判的であった副首相のシリク・マタクは、首相兼国防相のロン・ノルと結託し、アメリカの後押しを受けて1970年にクーデターを決行した。外遊中だったシハヌークは国会の決議により国家元首を解任され、王制廃止の上で国名は「クメール共和国」と変更された。この間も、コサマックはプノンペンの王宮に留まっていた。クメール共和国は支配基盤が脆弱であり、亡命先の北京で「カンボジア王国民族連合政府」を結成したシハヌーク派や、国内で地下活動を行っていた共産主義勢力「クメール・ルージュ」などからの攻勢を受け、たちまち不利な状況に陥った。
1973年、シハヌークと和平交渉を行おうとしたクメールの首相ハン・トゥン・ハクは、シハヌークが滞在している北京へ赴く際、コサマックを同伴した。しかし、シハヌークは交渉を拒否し、ハン・トゥン・ハクは交渉失敗の責任を取って首相辞任を余儀なくされた。クメール・ルージュによるプノンペン陥落の10日後の1975年4月27日、コサマックは滞在先の北京で病により崩御した。
コサマックは1940年代、カンボジアの伝統舞踊アプサラを孫娘のボパ・デヴィ(シハヌークの長女)に教えるかたわら、古代のアプサラを復元することにも意を注いだ。ボパ・デヴィ王女は後に高名な踊り手となり、王政復古後に文化芸術相も務めた[1]。
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