シピフル・シコー

シピフル・シコー
Sipihr Shikoh
ムガル帝国皇子
シピフル・シコーと父ダーラー・シコー

出生 1644年10月3日
アーグラ
死去 1708年7月2日あるいは3日
デリー
配偶者 ズブダトゥンニサー・ベーグム
父親 ダーラー・シコー
母親 ナーディラ・バーヌー・ベーグム
宗教 イスラーム教スンナ派
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シピフル・シコー(Sipihr Shikoh, 1644年10月3日 - 1708年7月2日あるいは3日)は、北インドムガル帝国の皇子ダーラー・シコーの四男[1]。母はナーディラ・バーヌー・ベーグム

生涯

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1644年10月3日ムガル帝国の皇子ダーラー・シコーナーディラ・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた[2]

1658年6月8日、シピフル・シコーは皇位継承戦争に参加していた父ダーラー・シコーとともに、叔父のアウラングゼーブムラード・バフシュの連合軍と戦ったが敗れた(サムーガルの戦い[3][4]。そののち、父とともに長い逃避行を共にした。

1659年3月、シピフル・シコーは父ダーラー・シコーともに最後の戦いとして、アウラングゼーブとアジメールで交戦したがこれも敗れ(アジメールの戦い)、またしても逃げざるを得なかった[5][6]

各地を転々としたのち、最終的に父ダーラー・シコーがかつて命を助けたアフガン人ジーワン・ハーンのもとを頼ろうとした。そのとき、シピフル・シコーはその足元に身を投げ、「あのパターン人の領土には入らないでください」、と神にかけて懇願したが、父が聞き入れることはなかった[7]

6月21日朝、ジーワン・ハーンは案の定裏切り、シピフル・シコーは父ダーラー・シコーとともに捕えられ、ラホールを経てデリーへと送られた[2][8]

9月11日、シピフル・シコーと父ダーラー・シコーはみすぼらしい象に乗せられて、デリーを引き回されたが、同伴していたジーワン・ハーンが人々から呪いの言葉を浴びせられ、一部から投石攻撃を受けたことから、アウラングゼーブは人々とその日のうちに処遇を決めた[9]。沙汰の結果、父ダーラー・シコーは処刑、シピフル・シコーはグワーリヤルに送られることとなった。

12日、シピフル・シコーは父ダーラー・シコーとともに取り押さえられ、目の前で父の処刑を見せつけられた。のち、彼はグワーリヤルへと送られ、グワーリヤル城に幽閉された。

1660年初頭、シピフル・シコーの幽閉されていたグワーリヤル城に兄のスライマーン・シコーが幽閉されたが、彼はアヘンが溶かされた水(ポースト)を飲まされ続け、翌1661年5月に死亡した[2]

一方、シピフル・シコーは何もされることはなく、1673年2月9日にはアウラングゼーブの娘ズブダトゥンニサー・ベーグムと結婚し、1675年にようやく長い幽閉生活から解放された[2]

1676年7月23日には、二人の間に男子が生まれたが、同年12月に彼は死亡している[2]

1708年7月2日あるいは3日、シピフル・シコーはデリーで死亡した[2]。なお、その前年3月にはアウラングゼーブも死亡していた[2]

脚注

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  1. ^ 上の兄二人が夭折したため次男としても扱われる。
  2. ^ a b c d e f g Delhi 6
  3. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.79
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.230
  5. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.131
  6. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌 』、p.132
  7. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.141
  8. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.142
  9. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌』、p.145-146

参考文献

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  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年。 
  • フランソワ・ベルニエ 著、関美奈子 訳『ムガル帝国誌(一)』岩波書店、2001年。 

関連項目

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