シャルル・ヴィルドラック(フランス語: Charles Vildrac, 1882年11月22日 - 1971年6月25日)は、フランスの作家。まず詩人、つぎに戯曲作者として名を得、童話も書いた。人間主義にもとづく反戦主義者であった。
1882年、パリ5区で生まれた。本名はシャルル・メサジェ(Charles Messager)。父は独身時代パリ・コミューンに活動し、ニューカレドニアへ送られた前歴の人であった。シャルルは教職の母が勤める学校を卒業し、ヴォルテール高等中学校(Lycée Voltaire)に進んだ。詩に取りつかれ、18歳のとき数篇を雑誌に載せた。弁護士の秘書として働いた。
1901年ころ、ジョルジュ・デュアメル、ルネ・アルコス(René Arcos)らの若手作家を知った。1903年、兵役に服した。1905年、デュアメルの姉ローズ(Rose)と結婚した。
1906年秋からの14ヶ月間、デュアメル、アルコスほかの詩人・作家・画家・音楽家・印刷工らと、パリ南東クレテイユの古家を改修したいわゆる『クレテイユの僧院』(Abbaye de Créteil)に籠もって、出版で自活しようとする理想主義的文学共同生活を営み、ジュール・ロマンも参加した。『アベイ派』と呼ばれる。1907年、詩集『幻想と蜃気楼』を『僧院』で印刷した。
『僧院』閉鎖後の1910年、詩集『愛の書』を出版した。文筆のかたわら、パリ6区セーヌ通りで妻と画廊を経営し、それは1930年まで続いた。
1914年からの第一次世界大戦期は、カモフラージュ部に属した。
1920年3月、ジャック・コポーのヴィユ・コロンビエ劇場で初演した『商船テナシティ』が評判を呼び、同劇場での上演は200回を越えた。この年、ロマン・ロラン、ジュール・ロマンらと、『反戦詩集』を共編した。
この頃以降、地中海岸のサントロペとパリとで暮らした。童話も書き始めた。
1925年10月、ジューヴェ一座のコメディ・デ・シャンゼリゼ劇場で、『ベリアル夫人』を初演した。
1926年5月、妻と日本を訪れ、川島理一郎、黒田清輝・石井柏亭・与謝野鉄幹・与謝野晶子・西條八十・堀口大學・小山内薫・土方与志らが、歌舞伎座で歓迎会を開いた。川島には、パリ時代に夫妻の画廊を借りた縁があった。また、高村光太郎、高田博厚、尾崎喜八、倉田百三、片山敏彦ら「ロマン・ロラン友の会」でも歓迎会を開いた。
1930年、『仲違い』(La Brouille)が、コメディ・フランセーズで成功し、その後も再演された。
1932年、『革命的作家芸術家協会』(Association des écrivains et artistes révolutionnaires)の発起人の一人になった。
1934年の映画『商船テナシチー』では、監督のジュリアン・デュヴィヴィエと共に、脚本を書いた。
1928年と1935年とにソヴィエトを訪れ、その体制に好意的な『新しいロシア』を、1937年に出版した。
ナチスに占領されていた1942年に、非合法出版の『フランス文学』(Lettres Françaises)に参画した。1943年ゲシュタポに逮捕され、3ヶ月投獄された。ナチス撤退後は、作家・芸術家に対する『検問調査委員会』の長を勤めた。
1952年の第5回カンヌ国際映画祭で日本の『源氏物語』が撮影賞を受けたときは、ヴィルドラックが審査員、高田博厚が日本代表であった。
1960年、アルジェリア戦争反対の宣言に署名した。
1963年、アカデミー・フランセーズ文学大賞を受賞した。
妻ローズの死後、1970年、秘書のシュザンヌ・ロシャ(Suzanne Rochat)と再婚した。
1971年、腎臓を病みサントロペで死去。88歳没。その地に葬られた。
1973年、フランス文学者協会(Société des gens de lettres)に『シャルル・ヴィルドラック賞』(Prix de poésie Charles Vildrac)が設けられた。
原著の発行年次順に列記する。重版されている図書は、新しい方の年次を記す。