シャーマン・ルイス Sherman Lewis | |
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生年月日 | 1942年6月29日(82歳) |
生誕地 | アメリカ合衆国・ケンタッキー州ルイビル |
ポジション | ハーフバック |
大学 | ミシガン州立大学 |
所属チーム(選手) | |
1964-1965 1966 |
トロント・アルゴノーツ (CFL) ニューヨーク・ジェッツ (AFL) |
所属チーム(コーチ/管理職) | |
1969-1982 1983-1991 1992-1999 2000-2001 2003-2004 2009 |
ミシガン州立大学 サンフランシスコ・フォーティナイナーズ グリーンベイ・パッカーズ ミネソタ・バイキングス デトロイト・ライオンズ ワシントン・レッドスキンズ |
シャーマン・ルイス(Sherman Lewis、1942年6月29日 - )は、アメリカ合衆国・ケンタッキー州ルイビル出身のアメリカンフットボールコーチ。
アシスタントコーチとしてこれまでにスーパーボウルで4回(第19回、第23回、第24回のサンフランシスコ・フォーティナイナーズ、第31回のグリーンベイ・パッカーズ)の優勝に関わっている。
ミシガン州立大学時代は大学最終年の1963年には90回のランで577ヤードを獲得、パスレシーブでも11回のレシーブで303ヤードを獲得、ハーフバックとしてオールアメリカンに選出されると共にハイズマン賞の投票でロジャー・ストーバック、ビリー・ロスリッジに次いで3番目の得票を得た。大学時代はアメリカンフットボールの他に陸上競技も行っていた。大学2年次にはビッグ・テン・カンファレンスのインドア大会で走幅跳、300ヤード走の2種目で優勝した。1963年のカンファレンスの大会でも走幅跳で優勝した。2001年9月7日、ミシガン州立大学のスポーツ殿堂入りした7人目の人物となった[1]。
1964年、1965年にCFLのトロント・アルゴノーツでプレーした。1966年はAFLのニューヨーク・ジェッツでプレーした[1](AFLは1970年にNFLと統合した。)。
選手生活から引退した後、母校のミシガン州立大学のコーチを1969年から1982年まで務めた。その後ビル・ウォルシュの下でサンフランシスコ・フォーティナイナーズのランニングバックコーチ、ワイドレシーバーコーチを務め3度のスーパーボウル制覇に関わった。ナイナーズで彼が指導した選手にはロジャー・クレイグ、トム・ラスマン、ジェリー・ライス、ジョン・テイラーがいる[1]。
1992年から1999年までグリーンベイ・パッカーズのマイク・ホルムグレンヘッドコーチの下でオフェンスコーディネーターを務めた。彼が指導した8年間でブレット・ファーヴは30,894ヤードを獲得、236タッチダウンをあげた[1]。
2000年から2001年までミネソタ・バイキングスのオフェンスコーディネーター、2003年から2004年までデトロイト・ライオンズのオフェンスコーディネーターを務めた。
34シーズンコーチを務めていたものの2004年シーズン以降アメリカンフットボールから遠ざかっていた彼は、2009年ワシントン・レッドスキンズのオフェンスコンサルタントに就任、シーズン第6週まで2勝4敗、1試合平均13.4得点でリーグで下から4番目の平均得点しかあげていないレッドスキンズのダニエル・スナイダーオーナー、ビニー・サーラトGMの意向でジム・ゾーンヘッドコーチに代わってチーム加入からわずか2週間[2]でオフェンスのプレーコールを担当することとなった[3][4][5][6]。
先代 リンディ・インファンテ |
グリーンベイ・パッカーズ 攻撃コーディネーター 1992年-1999年 |
次代 トム・ロスリー |
先代 レイ・シャーマン |
ミネソタ・バイキングス 攻撃コーディネーター 2000年-2001年 |
次代 スコット・リネハン |
先代 モーリス・カーソン |
デトロイト・ライオンズ 攻撃コーディネーター 2003年-2004年 |
次代 テッド・トルナー |