シュド・エスト SE.200
シュド・エスト SE.200 アムピトリーテー(Sud-Est SE.200 Amphitrite)は、1930年代末にフランスのシュド・エストで製造された旅客飛行艇である。元々はフランスの航空機産業が国有化される前にリオレ・エ・オリビエLeO H-47として開発された[1]。
SE 200は片持ち式高翼単葉に双尾翼の6発エンジンを装備した巨大な飛行艇であった。この機は1936年にフランス航空省のエールフランス向けの航続距離6,000 km (3,750 miles)、旅客20人、貨物500 kg (227 lb)の大西洋横断旅客機という要求仕様に応じて開発された[2]。ラテコエール( Latécoère)のラテコエール 631、リオレ・エ・オリビエのLeO H-47、ポテーズ(Potez-CAMS)のポテーズ 161(Potez-CAMS 161)の設計がそれぞれ提出され、全ての機体の製造が承認された。1938年の航空ショー(Salon de l'Aéronautique)で水に浮かべられたSE.200の巨大なモックアップが展示された[3]。
第2次世界大戦が勃発したときには4機のSE.200 がマリニャーヌで製造中であり、フランス降伏後も作業は続けられ並行して5番機の製造が始まった。初号機「christened Rochambeau」が1942年12月11日に初飛行を行った[4]。その後のテストはドイツ占領軍に中止させられ、初号機はボーデン湖に運び去られた。この機は1944年4月17日に英国空軍のモスキート機の攻撃を受け破壊された[5]。9月16日のアメリカ軍のマリニャーヌへの航空攻撃で2番機が破壊され、他の機も大きな損傷を受けた[5]。
戦後、作業の進んでいた3番目のSE.200が修復の価値があると判断され引き揚げられた。結局、この機は1946年4月2日に飛行したが1949年10月に荒い着水で損傷し、以後修復されることはなかった[6]。4番機を完成させるという計画もあったが結局進展せず、5番機はスクラップにされた。SE.200初号機の残骸は1966年にドルニエ社によって引き揚げられた[6]。
(SE.200)