シュルハチは、明朝後期の建州女直で、アイシン・ギョロ氏。清太祖ヌルハチの同父母弟にあたる。シュルハチ・ベイレ (尊称)、ダルハン・バトゥル (称号)、和碩莊親王 (諡号) とも。
出身氏族 | |
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アイシン・ギョロ氏 | |
名字称諡 | |
漢字音写
称号
諡号
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出生死歿 | |
出生年 | 明嘉靖43年1564 |
死歿年 | 明萬曆39年1611 |
爵位官職 | |
追封 | 和碩親王[6] |
親族姻戚 | |
父 | タクシ |
長兄 | ヌルハチ |
子 | ジルガラン |
義兄/女婿 | ブジャンタイ |
父タクシと母ヒタラ氏の第二子として明嘉靖43年1564に生れた[7]。それより五年早い嘉靖38年1559に第一子 (長兄) として生まれたのが後の清太祖ヌルハチである[5]。シュルハチの幼少期については詳らかでないが、父タクシと祖父ギョチャンガが明兵に殺害され、ヌルハチが決起挙兵したのは、明萬曆11年1583、シュルハチ20歳の時であったとされる。[注 1]
萬曆24年1596にはウラ国主ベイレブジャンタイの妹・滹奈フナイを娶り[8][注 2]、同26年1598には長女・額實泰エシタイをブジャンタイに妻せ[9]たことで、シュルハチはブジャンタイ (ウラ) と姻戚関係を築くに至った。金王室の血筋をひくとされるウラ王家とのパイプを太くしたことは、シュルハチの名声や勢力を高めた一方で、後のみずからの没落の一因ともなった点で注目に値する[7]。また、遡って同25年1598には都督の肩書きで明に入貢し、北京で酒宴に呼ばれている[1]。
萬曆27年1599旧暦9月、ヌルハチのハダ侵攻に従軍したシュルハチは自ら先鋒を買って出、兵1,000を率いて進軍した。ところがシュルハチは、ハダ軍が城を出て徹底抗戦の構えを見せたことを理由に兵を按じて動かざる姿勢を見せ、さらにシュルハチ隊を迂回しようと敵城に沿って行軍を試みたヌルハチ隊に多数の死傷者を出させた。この頃にはすでにヌルハチ・シュルハチ兄弟間の関係が拗れ始めていたものと考えられる。[7]
萬曆31年1603には長女に続き、さらに二女オンジェを再びブジャンタイに妻せ[10]、両者の関係は一層密接度合いを増した。
しかし同35年1607、ワルカ部フィオの城主ツェムテヘが、ウラ国主ベイレブジャンタイによる加虐を理由に帰順を願いでたことを承け、ヌルハチはシュルハチらに命じ、兵馬3,000を率いてフィオ部民の移送に向わせた。そこにウラ側も移送妨害のため兵を派遣したことで、両者は李氏朝鮮領内の烏碣岩で激突した。シュルハチは出兵時点ですでに消極的な態度をみせていたが、戦闘が始まると独り進軍を中止し、静観の構えをみせた。
戦闘はウラの惨敗におわり、戦功をあげた諸将がヌルハチから労いを受けた。この時、弟シュルハチはダルハン・バトゥルの称号を授与されたが、その一方で、戦闘から逃げた廉でヌルハチがシュルハチの部下を処刑しようとした為、シュルハチがそれに対して強く反撥し、ヌルハチが譲歩したことで収束した。茲に兄弟間の軋轢は浮き彫りとなった。
烏碣岩での一戦以来、シュルハチは将軍として起用されることもなくなり、内に留め置かれて鬱々とした日々を過ごした[11]。ヌルハチは自分自身にも劣らぬ待遇を以てシュルハチの衣食を保証したが、シュルハチは養われ生かされるその生活に不満を募らせ、度々周囲にヌルハチについて託った[12]。そして長子・阿爾通阿と第三子・扎薩克圖に「吾豈に衣食を以て人に覊を受けむ哉」と語ると、ヌルハチの羈縻を脱して黑扯木[注 3]に移居した[11]。
萬曆37年1609、ヌルハチはそれを知るや憤り、シュルハチの家財を没収した[12]。さらに阿爾通阿と扎薩克圖を誅殺し、シュルハチを強制的に帰還させた[11][注 4]。シュルハチが帰還するとヌルハチは没収した家財をすべて返し、また元の軟禁生活を強いた[12]。
萬曆39年1611旧暦8月19日、シュルハチ死去、享年48歳 (虚歳)。[14][15]亡骸は清永陵に葬られ、天命9年1624に東京陵に移葬された。順治10年1653、第五子ジルガラン (和碩鄭親王) の爵位に鑑み、和碩親王に追封、諡号を莊と定められた。[6]
*『愛新覺羅宗譜』を基に作成。その外の典拠のみ脚註を附す。
*中央研究院歴史語言研究所版 (1937年刊行)